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2026.02.02 12:41

奥谷研での日々 -奥谷喬司先生を偲んで-

土屋 光太郎(34漁生)

 令和7年1月10日に奥谷喬司先生(2増大)がお亡くなりになってから、もう1年が過ぎてしまった。メルマガへの投稿を依頼されてから、個人的にはまだいろいろなことが生々しくて筆が進まなかったのだが、少し落ち着いたところで当時の研究室での記憶を書いてみようかと思う。

 私は、軟体動物の研究をしたいと大学に入ったものの、思った方向が見つけられず、2年生になって、ようやく希望に近い専門の水産動物学の授業が始まった。そう思っていたところ、講義を担当されていた増田辰良先生(52増)が「実習中に倒れた」という知らせが。まだ初夏の頃で、「残りの講義はどうなるのか」と不安に思っていた。すると当時、国立科学博物館にいらっしゃった奥谷先生が急遽、非常勤として担当することになったと聞いた。貝類に興味があり、図鑑を読みふけっていた身としては、まさに「青天の霹靂」であった。講義が再開され、はじめて拝見した奥谷先生は、穏やかな顔でやや高めの声で講義をする優しい印象の先生であった。とはいえ、私にとっては憧れの大先生である。そのまま教授として大学に着任されると聞き、そう言ってしまうと怒られるかもしれないが、降ってきた幸運に喜びは隠せなかった。

 授業が進む中、当時読みたいと思っていた海外の論文が手に入らず、奥谷先生の研究室に伺って「お持ちではないですか」と緊張してお尋ねしたら、じゃあ今度コピーを取っておくから、と気さくに対応してくださった。この時、「もうこの先生について行くしかない」と思った。その後、その時にコピーしていただいた論文とつながる私の論文もどきを何度もチェックしてくださり、後に奥谷先生のご縁で活字にしていただいたのが、私の初めての出版物となった。

 こうなれば、もう卒業論文の研究室は水産動物学(後に無脊椎動物学)一択である。3年生の中頃から研究室にお邪魔して、卒論を始めることとなった。当時、研究室は奥谷先生と、今野健二郎先生(動物発生学、52増)、瀬川進先生(19増大)の3人体制で、私の入ったタイミングでは修士課程を終えて研究生で残っていた先輩1人と修士課程の先輩2人、研究生で残っていた先輩が1人と、ちょっと寂しい感じであったが、翌年には我々同期の4年生が5人、実質このメンバーが奥谷先生の最初の学生ということになった。

 とにかくお忙しい中、聞けばなんでも丁寧に教えてくださる先生で、頭足類の分類学をテーマに選んだ自分は、時間を伺っては毎日のように奥谷先生の居室に押しかけるという、迷惑な学生になった。まだイカ類の知識が全くない自分に、水産庁時代から蓄積した貴重な深海性イカ類の標本を、ひと山ドンと預けられた。当時の自分は、とにかく必死で先生に食らいつく日々だった。また、実に美しいイカ類のスケッチをする先生であったが、分類学におけるスケッチは人に見せて説明するためだけではなく、観察して認識理解するための手法の一つであると、その重要性を教えてくださった。

 私が大学院に進学をした年には、奥谷先生に指導を受けたいという外部からの大学院生もどっと増えて、いきなり10人を超える大所帯になってきた。このタイミングで、耐震工事を伴う建屋の改修が入り、学生全員が入れる大きな学生室と研究室ができた。これが、のちのち重要な宴会スペースの確保となった。

 この当時、奥谷先生は50歳代初めで、フィールドワークにも積極的で、この頃から毎年、奥谷先生と学生たちでのフィールドツアーが行われるようになった。最初のツアーは式根島で、八丈島、奄美大島、沖縄本島、しまいにはパラオまで探検隊を繰り出すことになった。昼は日がな一日海でサンプリング、夜は採集物を整理しながらの討論というか、宴会である。採集物を整理していると、元来貝類コレクターでもある先生が整理する手元を覗き込んで「これは君が持っているような貝じゃないね」と冗談まじりにつまんでいく、なんていうことも。

 また、秋には神鷹丸を利用した調査航海を組み、伊豆諸島海域でのドレッチ調査を繰り返した。奥谷先生は前職が水産研究所であったこともあり、とにかく船に強く、船酔いをしている姿を見たことがなかった。船上では早朝から日没までドレッチ採集、日が落ちても採集物のソーティングがデッキ(甲板)で続き、一段落するとシャワーを浴びる。船に缶詰状態の調査なので、娯楽は食堂でのディスカッション(兼酒盛り)である。翌朝も早いというのに深夜まで、とにかくいろいろな話をした。基本、自ら採集し生物を見るということをひたすら教えられ、楽しむ研究室だった。

 昨今、学内で飲酒というとちょっと白い目で見られそうだが、本当に酒盛りの好きな研究室であった。この頃を振り返って奥谷先生はよく「宴会の日々」とおっしゃっていたが、先生方お三方とも酒がお好きで、また朗らかな方ばかりで、ことあるごとに、いや、何も無くても宴会が始まった。今言うと怒られそうだが、我々が大学院生の頃は、夕方になると、その頃お伺い担当であった現国立科学博物館のHさんが奥谷先生の部屋にいく。「今夕は、いかがいたしましょうか」とお伺いし、先生からカンパをせしめてくる。私は主に調理担当であったが、とにかく回数も多いので安くあげるために宴会は研究室、そして有り合わせの食材でつまみを作り、皆で議論する(飲む)。よく使った食材は、奥谷先生が仕事でいただいた冷凍スルメイカだった。いや、ニュージーランドあり、アルゼンチンあり、試料として送っていただいた冷凍イカが大型冷凍庫にストックされていて、本当によくイカを食べた。そして飲んだ。毎夕のように。先生はダメな大学院生達に本当によくお付き合いくださって、飲んでは話をし、研究にも活発な研究室であった。

 この頃の大学院生は博士課程に進んだ学生も多く、貝類などの研究者として研究職についた卒業・修了生も多かったこともあり、奥谷先生には「軍団」と呼んでいただいて、卒業、就職後もずっと可愛がっていただいた。毎年数回、奥谷先生を囲んだ軍団の宴会が開催され、一昨年末も、さあ忘年会の予定はどうしようと奥谷先生とも調整をし、年内は難しそうだから新年会の日程を決めようとした直前の、突然の訃報であった。

 あの研究室でのにぎやかな日々は、奥谷先生からいただいた様々なご恩と共に、生涯の宝物である。軍団を代表し、奥谷喬司先生のご冥福を心よりお祈りいたします。

(東京海洋大学学術研究院 海洋環境科学部門 准教授)

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