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2016.07.29 09:24

恩師 松生洽先生の思い出

田中 衛吉(22漁大)

 2016年5月、2年ぶりにカナダ・バンクーバーから日本に戻り、水大の友人達{安藤源(21増大)、和泉力(21製大)、伊藤朝雄(21製大)、坂井繁(21製大)}と日光・鬼怒川温泉へ一泊旅行を楽しみ、45年前の学生生活の思い出に浸っていました。2年前に日本に帰って来た時、友人から楽水No.844(October 2013)にバンクーバーで私が活動しているお神輿の会『楽一』の記事が載っていると機関誌を手渡されました。機関誌の中で 偶然  松生(3漁大)先生が3年前に亡くなられていることを知りました。その時は松生先生のお墓をお参り出来ず、今回は何としてもカナダ・バンクーバーに戻る前に、松生先生のお墓をお参りし、ゆっくりお話をして帰りたいと思う気持ちが込み上がっていました。

20160728_a12016年7月1日カナダディー・サーモンフェスティバルにて
カナダ・バンクーバーで初めて建造した『楽一』のお神輿

 水大を卒業した友人との話題は、講座の教授と生徒というよりも師弟に近い思い出が多い。それはなぜかと言えば、水産大学(現在の海洋大学)の教授は、水産大学卒業の先輩であることが多いという環境です。松生先生も例外ではありませんでした。私が入学した昭和44年は、学園紛争で大学が封鎖され、一年間授業らしい授業がなく途方にくれていました。埼玉県不動岡高校3年の担任藤倉硣(53製)先生から船に乗りたいのであれば、水産大学を受験したらと言われ入学したものの勉強せずに一年が過ぎ去る頃でした。好きな美術に興味を持っていたこともあり、美術部で知り合った一年先輩の北口正俊さん(20漁大9修)の『漁法物理学講座』を覗いたことが、松生先生との出会いでした。

 『漁法物理学』という学問が、あまりにも漠然とした学問であったことを思い出します。しかしながら、『漁法』というよりも『海』という環境を物理学的に解明するという研究に新しい時代の幕開けのように感じ始めていました。授業のなかった時に松生先生の部屋で寺田寅彦の随筆集や宇田道隆教授の『漁場学』について直接お話を伺った時は驚きと感銘を受けました。松生先生自身が捕鯨に従事した経験から、クジラが南氷洋に帰って来る『クジラの道』を知り得たことを楽しく語ってくれました。私が留年して水産庁の調査船『開洋丸』に乗船し、半年間の『漁場調査』を通じ、世界各地の『世界の魚と漁場』についてますます興味を深めることになりました。『学問への楽しみ』を実感した時でした。

 『開洋丸』から下船した時には、『船長』になりたいという気持ちがなくなり、松生先生の講座でお世話になることを決めていました。それから4年間、学校の授業があるなしにかかわらず、講座の部屋を訪れる日々でした。時間さえあれば松生先生に会って『漁法物理学』以外の学問を教えて戴きました。先生の机の上には、『歎異抄』が置いてあり、時にはP.F.ドラッカーの『断絶の時代』があり、先生の幅広い知識に感服しました。夜授業が終わってから帰宅する前に、ウイスキーをテーブルに置いて私を含め学生達と話す松生先生の笑顔は今でも私の心の中に残っています。

20160728_a2お神輿と一緒に参加する山車の上で笛を吹く山本実(14漁大
14専)と前列左から残間聡(47食品37修)と田中の水大仲間

 松生先生は、私が大学に残り研究にたずさわると期待していたようでしたが、私の気持ちは『海』の基礎研究よりも世界各地の『魚』に関心が移り、実際に世界から集荷される『魚』を知りたいと思うようになっていました。卒業と同時に築地で入荷する『魚』に従事し、食べ物としての『魚』に没頭する毎日でした。松生先生は、私の考えを否定せず、逆に励まして戴きました。大学卒業後も、会社から水産大学に立ち寄り、松生先生と会って助言を戴きました。1979年8月私がカナダに永住する旨を伝えた時は、心から心配してくれました。そして、2000年に会社を辞めた時も、松生先生との下関で再会も快く受けて戴き、本当に感謝に堪えません。松生先生は、私の心の支えになっています。

20160728_a3バンクーバーの隣にあるリッチモンド・スティーブストンの現在の街並み、側を流れるフレザー川には大漁の紅サケの群れが遡上し、缶詰工場がありました。

松生洽先生のご冥福を心からお祈り致します。

合掌

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