続・おさかなその世界――金正恩第一書記、スッポン養殖工場に激怒――
幡谷 雅之 (15増大)
核・ミサイル開発や拉致問題やなど、最近話題の尽きない北朝鮮だが、朝鮮中央通信によると、最高指導者金正恩朝鮮労働党委員長が、平壌のスッポン養殖工場を視察した際、「激怒した」と報じた(2015年5月19日)。
正恩氏は、工場内でため息ばかりが聞こえるとして、「こんな工場は初めて見た」と語った。党が必要な対策を立てたにもかかわらず、2年たっても養殖場を完成させられなかったとして、「工場幹部らの無能とこり固まった思考方式、無責任な仕事ぶりの表れだ」と批判。電気や水、設備の問題で生産を正常化できずにいるのは「話にならないたわごとだ」と述べた。さらに10月10日の朝鮮労働党創立70周年に「どんな成果を出そうとしているのかわからない」と突き放した。また、朝鮮労働党の機関紙『労働新聞』によると、正恩氏はその際、幹部を「無能」「無責任」と叱責し、「(金日成主席、金正日総書記の偉業を学習する)革命事跡教育室がない」「他の職場と雰囲気が違う。なぜきちんと生産ができないのか」と強く批判したという。
この工場は正恩氏の父親、故金正日総書記の提案で建てられた。正日氏も現地指導し、「わが人民に薬剤としてのみ使われていたスッポンを食べさせることができるようになった」と喜んでいたという。しかし、正恩氏は「生産を正常化できずにいる」との報告を受け、実態を把握するために訪れた。正恩氏は工場内を回り、問題点を具体的に指摘。「どうしてこんなに情けない状況になったのか、あきれて言葉が出ない」と語ったという。
失敗すると粛清の噂が絶えない金正恩政権だが、その後このスッポン工場幹部はどうなったのか。他人事ながら大変心配なことではある。案の定、15年7月7日のDaily NK Japanによると、工場支配人は処刑されたという。しかし、水槽に水が供給されていなかったのは支配人の責任ではなく、電力をまともに供給できない発電体制に原因がある。「それなのに支配人が銃殺されたのは、幹部たちの『ごますり忠誠競争』のせいだ」と情報筋は指摘している。
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さて、我が国におけるウナギ、スッポンなどの養殖は、明治20年代に那須田又七が始めたとされるが、不成功に終った。その後、同32年、東京深川で養魚会社を経営していた服部倉次郎と雄踏村(現浜松市西区)の中村正輔が吹上に養殖場を作り、ウナギ、スッポンの養殖の事業化に成功した。倉次郎は、慶応2年(1866)沼地で捕らえられたスッポンの飼育に成功したことから、スッポンの養殖に取り組み、たゆまぬ努力の結果、明治12年には武蔵国葛飾郡千田(現東京都江東区深川)の池約2haを利用し、キンギョ、コイ、ウナギとの混養でスッポンの養殖を試み、数年で相当の利益をあげ、以後手広く養魚を行っていた。
明治32年開設の養殖場は「服部中村養鼈(べつ)場」と名付けられ、当初は当初養鰻を主としていたが、次第に看板どおりスッポンの養殖に重点を置くようになっていった。明治40年頃には、生産額4,334円に達し、既に日本一の名声を博していた。倉治郎が永年改良工夫を重ねて確立した養殖技術は、他の模倣・追随を許さず、我が国のスッポン養殖生産の大半は同養鼈場によってなされたといえる。
その後、大分県を中心として冬期加温養成技術が開発され、飼育期間の短縮や越冬中の歩留まり向上などの問題が解決されるようになった。これらのことから、スッポンの養殖は九州・沖縄などの温暖地や温泉熱(水)が利用できるところで普及し始め、昭和61年における養殖総生産量は495トンと急増し、それに伴い静岡県のシェアは約40%に低下した。
しかし、同養鼈場は今なお露地養殖を継承し、約20haの養殖場で、加温養殖にはできない最高品質のスッポンを生産し、主に割烹・高級料理店向けに出荷している。
スッポンの養殖技術がいつ、どのように北朝鮮に伝わったかは詳らかではないが、おそらく中国・韓国を通じてのことだろう。