内村鑑三はなぜ水産を捨てたのか
幡谷 雅之 (15増大)
内村鑑三(1861~1930)は、明治~昭和の初めにかけて日本を代表する思想家・宗教家であり、一高不敬事件・足尾銅山鉱毒事件・非戦論などを通して、日本の近現代史に名を残し、今も多くの人々に影響を与えている。
明治14年(1881)札幌農学校を農学士(水産学専攻)として首席で卒業後、北海道開拓使や農商務省に勤め、水産調査を担当した。そのままいけば、彼は日本の水産研究者の魁として、日本を代表する研究者になっていただろう。ところが、現実はそうならなかった。転身した直接の動機は何だったのだろう。そこにはある漁業家との運命の出会いがあった。
明治23年(1890)水産伝習所(後の水産講習所、東京水産大学、現東京海洋大学)の生物学教師だった当時29歳の青年・内村は、房州白浜で魚類解剖の実習を行い、学生たちを引率して漁業実習に訪れた館山市布(め)良(ら)で、土地の漁業家・神田吉右衛門当時(当時56歳、後の村長)に出会った。ある夜二人で懇談した折、神田翁から「内村さん、技術改良もよいけれど、何よりも先に漁師(人間)を改良しなければ駄目ですよ」と指摘され、心を打たれた内村は帰京後直ちに辞表を出し、その後紆余曲折はあったもののキリスト教宗教家の道を歩み出した。
神田翁は、若い時から卓越したリーダーシップを発揮して、器械潜りアワビ漁を布良村の共有財産とし、その利益で学校校舎、漁港、道路、水道など各種インフラ整備を行い、子弟に育英資金を供与する道を開いた。また漁船改良に努め、漁業共済制度を設け、村長はじめ船主船頭、村役員全員による水産談話会を毎年開いて、遭難対策を協議するなど徹底した漁民教育を行い、明治期に布良のマグロ漁を日本の覇者と言わしめた中心的人物であった。近頃名を馳せた青森県大間のマグロ漁は明治期にここ房州布良の人達が伝えたものである。
本稿は、千葉県水産試験場で長年イワシの研究に没頭し、「イワシの予報官」として有名な平本紀久雄さんの調査からの引用である。蛇足ながら、個人的なことを言えば、小生は大学時代、当時館山市にあった千葉県水産試験場で実習し、平本さんに大変お世話になったことがある。
参考文献
平本紀久雄(2013)内村鑑三の進路を変えた布良の神田吉右衛門翁、1月27日、南房教会礼拝奨励