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2019.04.01 15:36

江戸文化年間伊豆下田にて、石材採掘より漁場を守る

幡谷 雅之(15増大)

 「下田年中行事」は、天保14年(1843)平井平次郎が20年の歳月をかけて著わした全87巻の下田の小記録であり、町の年中行事のほか、略史、寺社縁起、年貢、御林、海防、天保飢饉等、下田に関する諸記録を集めてある。
 この「下田年中行事」の巻之23~25には、御林つまり幕府所領の山林に関する記事が収められているが、そのうち「伊豆屋四郎左衛門出石転石伐出願之事」と題する文書は、当時の史料としては数少ない、開発と漁業との葛藤を記録したものである。ここでは同書からその事件のあらましを紹介したい。

 当時下田には4カ所(鵜嶋山、赤根山、剣ヶ浦、狼煙山)の御林があったが、伊豆屋四郎左衛門は文化3年(1806)は鵜嶋御林根通りの青石の採掘を思いつき、それを江戸へ売りさばくため文化3年から10カ年季の請負を願い出た。
 当時石材産業は伊豆の主要産業の一つで、青石と呼ばれる青みがかった凝灰岩が伊豆石として切り出された。幕末の品川御台場築造にあたって下田の石材が使われたことは有名である。
 願を受けて韮山御役所(代官所)は町役人に対し差し障りの有無を尋ねた。そこで町役人はその内容を申し立て、現地調査(御検分)となり、代官所で調べ(御吟味)が始まった。
 町役人の言い分は、この御林は港の防風林かつ魚付林として大切な役割を持ち、周囲の磯は重要な釣り場であり、このような場所で砕石が行われれば、石材屑が流れ出して海を濁し、漁業に差し支えるというのである。過去にも同様な願が出され、その都度申請は却下され、御林内の開発は極力抑えられてきたようだ。
 石伐出に伴う障害は他にもあった。その一つは、磯際が船の係留場所であり、みだりに石が崩れ御用船諸廻船共難儀になるということである。さらには、願人は出石転石といって土中に埋まっていない石だけを採石するといっているが、御林一円に作業範囲を広げ、石伐屑や不用石が割れて窪みに落ち、苗木などの成長に悪影響を及ぼす。また、採石に従事する石工がふいご小屋を建て、火の用心が悪く御林を荒らすことなどもある。
 以上が、文化3年4月付けで下田町年寄総代清兵衛、名主源次郎が御検分前に出した文書の内容であるが、御検分後の5月付けで上記と同様の文書が出されている。これには差し障りの趣が少し詳しく書かれているが、その末尾には願人の上納金を代わりに町で出してもいいから石伐出は止めてほしいと嘆願している。

 当時下田町の財政は、文化元年(1804)12月の大火で代官所より復興資金382両を拝借するほどに逼迫していたが、それほど苦しい台所事情の下で何とか上納金を捻出してでもというところに、海に強く依存した生活を守ろうとする意気込みが感じられる。

 次に書き写されている文書はやはり文化3年5月付けのもので、ここには予想される漁業被害がより詳しく述べられている。
 海面が濁ると魚類は全く棲むことができない。石伐屑が落ちると川に流出し港内を濁す。港内は「釣魚肝要の場所」であるばかりでなく、カツオ漁の必需品である餌イワシの餌であるコマシザコの好漁場であった。海底が石屑で白くなり、水面が澄んでいるように見えるようでは小エビの類は生息せず、したがってイワシも獲れず、結局カツオも釣れないことになる。

 さて、願人伊豆屋四郎左衛門の側でも、石屑を落とさない工法をいろいろ示して何とか採石を認めさせようとした。しかし町役人側では、それに対していちいち反論し、願人側の思惑をことごとく打ち砕いている。
 その後願人側の都合で願が一時取り下げられ再提出される事情のため、詮議は少し延びて、文化3年8月御吟味詰(結審)となった。そして翌文化4年6月御下知(判決)となり、町役人(漁業側)の言い分は全面的に受け容れられ、四郎左衛門の申請は却下された。

 現在と当時とでは漁業の置かれている状況の違いもあるが、先人たちが多くの困難を乗り越えて漁場を守り通した努力に敬意を表したい。

【参考文献】
幡谷雅之(1984)文化年間下田にて石材伐出より漁場を守りし事、伊豆分場だ
より(215)、静岡県水産試験場伊豆分場

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