メールマガジン

トップ > メールマガジン > とある学友の愛校心
2019.08.30 15:46

とある学友の愛校心

斉田育秀(21製大)

 古希を過ぎた私だが、“ボーっ!”と生きてきた人生を振り返ると、近頃「愛校心」が妙に高まってきたことに気づいた。一般に人は所属しているところに愛着を持つので、もともと「愛校心」はあったと思うが、どうやら還暦を過ぎた頃からより強くなってきたようだ。

 私は母校の大先輩が創業した食品メーカーで働いたのち、そのグループ会社の顧問やフランスの紅茶屋の顧問などを経て現在に至っている。また最近では老骨に鞭を打ち、海洋大(水産講習所・水産大学)の同窓生の談話会「二火会」の世話役(6年半)や、非常勤の講師として海洋大で4・5月に「魚食文化論」を講義したりしている(3年)。加えて2年ほど前から「楽水誌」の編集委員もさせて戴いている。このような理由でキャンパスを訪れる機会も多く「愛校心」は益々アップしているようだ。 

 さて先般、大学時代の同級生の訃報の連絡を受けた。亡くなった彼とは在学中よく行動をともにした仲だが、卒業後は互いに音信不通であった。彼は同期会にも出てこないので「愛校心」は薄い人物かと思っていた。ところが“どっこい!”この度思わぬ形で彼の「愛校心」を知ったのである。「亡くなる前に連絡をとっておけば」と悔やまれたが、「愛校心」と絡め彼との懐かしい思い出を書き留めておきたい。メルマガの読者に拝読戴ければ幸いである。

 私は東京水産大学・製造学科の21回卒業生だが、先日東京海洋大学の現学長であり同期生の竹内俊郎君から、「同期の佐藤博雄君が亡くなった!」との電話を戴いた。突然の訃報に驚愕したが即座に、「海洋大の先生をしていた製造の佐藤博雄君だよね?」と再確認をした。実は21回卒業生には奇しくも同姓同名の「佐藤博雄君」が二人いたからである
 (生きている人を殺してしまったら大変だ!)。亡くなった佐藤君とは、海洋大の海洋環境工学科・環境測定研究室で研究と教鞭をとられていた、“佐藤博雄先生”のことである。
 思い起こせば21回生すなわち昭和44年入学の我々は、当時吹き荒れていた学園紛争の煽りを喰らって、入試は機動隊に守られて実施。4月の入学式もなく授業が始まったのは10月に入ってからであった。水大伝統の館山実習もなく「授業料を返せ!」と叫びたいところだが、当時は入学金4,000円、年間授業料12,000円という超低コストで大学生活を送っていたので、とても文句を言えた義理ではなかった。
 佐藤君とどのように出会ったかの記憶がないが、丸顔に膨らんだ頬とおでこ、眼鏡をかけたやや小作りな彼は妙に人懐っこいところがあり、気がつくと一緒に行動をともにしていたわけである。マッチョには程遠い体形だが彼は剣道と登山を趣味としていた。ともに体力・精神力が不可欠なスポーツであり、後に彼が南極観測隊の隊員として活躍する素地はこの辺にあったといえよう。

 彼と一緒に心理学の中島昭美先生の自宅をお邪魔した時のエピソードが懐かしい。東大近くの先生宅を二人で探したのだがなかなか見つからない。漸くそれらしき家を見つけたが出てこられたのが若い美人の女性(実は奥さま)だった。そこで私が「ここは違う!(中島先生には若くて美人過ぎる。先生ゴメンナサイ!)他を探そう」と言った。すると奥の方から「おお〜い。ここだ」の声。二人で顔を見合わせたというしだい。ちなみに中島先生は自費で「重複障害教育研究所」を設立され、一生を障害児教育に捧げられた名教育者である。

 さらに彼とは私が毎月通っていた「淀川長治・映画友の会」に何度か同行したことがある。この会は”サヨナラおじさん“として著名だった映画評論家の淀川先生が主催している会で、趣味で無声映画の研究をしていた私が、縁あって先生から直接「私の映画教室に来なさい」と誘われた会であった。会場はアメリカ大使館前の自転車会館で、新橋駅前の「吉野家」(当時は築地と新橋店のみ)で200円?の牛丼で腹ごしらえをして毎月参加したものだ。「たまには連れて行け」と言う佐藤君と一緒に直接“淀長節”を拝聴したことは貴重だった。

 「映画友の会」の終了後は、会のメンバーと2次会・3次会と飲み歩き、口角泡を飛ばしてダべリングをし、挙句の果てに終電に間に合わず佐藤君の下宿に泊まらせてもらったこともある。逆に彼が横浜の我が家に遊びに来たこともある。余談だが「映画友の会」の連中とは今でも銀座の片隅で毎月飲んでいるが、今年でちょうど半世紀になる。

 と、まあ、彼との思い出話を紹介させて戴いたがこれからが本論である。実は佐藤君の訃報を知らせてくれた竹内学長いわく、「彼は亡くなる前に大学に寄付をしてくれた」とのこと。研究・教育・雑用と大学の先生の多忙さは承知しているが、同期会に一度も顔を見せたことがなかった佐藤君に「愛校心」は全く感じなかったので、その意外な話に驚いた。

 考えてみれば大学に奉職していたのだから「愛校心」は当然で、当方の勝手な思い込みは慎むべしである。というわけでこの度の佐藤君の事例を知って、「愛校心」の具体的表現として、「逝去時の寄付」もありかなと思ったしだいである。昔は「香典の一部です」という例もあったが今は家族葬が多く香典は無い。寄付は多い方がよいが年金生活者の私なぞは余裕がない。そこで1万冊ほどある蔵書を売れば少々の金(二束三文?)にはなるだろうから、妻にそのように言っておくつもりだ。要は金額ではなく心意気?だ。
 ただ二人ともボケて“寄付の件”を失念した時はご容赦!ご容赦!である。

 最後に佐藤君には少々不謹慎な話になってしまったが旧知の仲としてご勘弁願いたい。
 「佐藤君!君がそんなにせっかちだったとは思わなかった。あまりにも早く逝き過ぎじゃないか」
 「しかし君の業績はキチンと学会の歴史に残って、後に続く研究者に引き継がれて行くはずだ」
 「私はしぶとくもう少しこのままで行くが、今度再会した折はまた映画の話で盛り上がろうよ」
 「佐藤博雄君お疲れ様でした。ごゆっくりお休み下さい」

    合掌

TOP