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2021.12.02 14:57

充実の学生生活(音楽部編)

溝口 扶二雄(8増大)

 2年次(昭和32年)に今の品川キャンパスの一部に久里浜から移動し、4学年が一応揃った。寮の部屋も部屋替えがあり、メンバーは全員が変わった。今度の部屋は、やはり8人部屋だが鉄製の二段ベッドが4つ、各学年2人ずつ。私のベッドの上段は、終生の友で、3年次に音楽部の部長になる阿部正隆君(8製大)。吉良にしろ、阿部にしろ、ある集団のトップになる人間と私は、なぜか縁がある。そして、彼らから得るものは、私にとって貴重な財産だ。

 品川に来て、奨学金も貰える(借りる)ようになり、心と体に若干の余裕が出来てきたので、もう一つ何かをやろうと決め、実家にあった古いギターを貰ってきて、教則本と首っ引きでクラシカルな曲に挑戦した。しかし、楽譜が読めないと前に進めない。そこで前々から合唱の指揮などもしていた、二段ベッドの上の阿部に頼み、音楽部に入れてもらうことにした。当時の部長は伊勢弘一さん(7漁大)。ピアノをポーンと鳴らして、「ミゾグチくん、音を出して。」(伊勢さんは、やさしい)「パーン!ア~~!ハイッ、バス!」 私の合唱のパートがバス(ベース)に決まった瞬間だ。人間には、持って生まれた固有の音域があることを、この時知った。訓練により音域をある程度広げることは出来るが、ファルセット(裏声)などを駆使しない限り、基本的には限界がある。

 当時の東京水産大学は、私の2年上まで女人禁制で、解禁になって入学してきた女性は1年上に1人、1年下に1人、つまり我が同期は女性ゼロだった。ところが、音楽部に入ったら、毎週土曜日に横浜の鶴見女子短大の合唱部員が10数人、いそいそとやって来るではないか。だから、土曜日は忙しくなった。柔道の稽古をやって、その汗くさい体で(シャワーなどない)音楽の部室に行く。合唱のバスのパートは4~5人だが、そのうち3人が柔道部員だ。私と、荻荘政人君(9漁大)、永島健一君(9製大)。2人とも体はデカく、声量があり、合唱にも熱心に取り組んでいた。 

 合唱の練習が終われば、予定通り渋谷か新宿の「うたごえ喫茶」に繰り出す。“カチューシャ”“灯”“どん底”など、今から思えば、昭和30年代が最盛期だった。トリスのハイボール1杯50円!これで3時間もねばった。山手線で品川から渋谷は10円、新宿は20円。だから渋谷が多かった。特に私は渋谷の“恋文横丁”が好きで、フランス映画でよく見たパリのモンマルトルの丘に似せて、近辺をよく歩いた。それから、随分後になって知ったのだが、この混声合唱団の中で3組が結婚したそうだ。素晴らしい。

 モーツァルトの二つの名曲を引っ提げてのウィーンオペラの日本公演。「フィガロの結婚」と「ドン・ジョヴァンニ」。主役級の10人ほどはウィーンから来日し、ワキ役とその他大勢を藤原歌劇団がフォローする構成だ。たまたま我が合唱団の指導を藤原歌劇団の団員に頼んでいた関係で、エキストラとして、身長170cm以上の条件で参加を求められ、バイトの感覚で参加した。その他大勢の兵隊の役だ。一応少しは外国人ぽく見えるようにメイクアップして、軍服を着て、木製のニセの鉄砲を担ぐ。あるタイミングで両ソデから一列に並んだそれぞれ10人ほどの兵隊が舞台中央に進み、通り抜ける。これが2回、それだけ。隊列の一番前の人は大変だ。壮大華麗なオーケストラの流れの中で、音をよく聞き、ある瞬間に一歩を踏み出さなければならない。指揮者も特別にキューを出してはくれない。一番前の人は緊張でコチコチだが、こちとら前の人が出て行ったら続いて行けばいいので、まったく楽。

 リハーサルの休憩時間に感じたことがある。オペラの主役級の2人の男性が、劇場の長い、30メートルくらいある廊下の端と端で、おしゃべりをしている。普通の会話の声の大きさだが、十分に相手に届いている。声がグーと伸びていく。私なら、怒鳴らないと届かないだろう。何しろ胴体の大きさが違う。ヴァイオリンとコントラバスの違いだ。“人間の声は最高の楽器”と言われるが、なるほど、素晴らしい。

 東京水産大学創立七十周年記念式典は昭和34年11月27日、我々8回生が4年生の時、華々しく挙行された。記念会会長および当時の楽水会会長は高碕達之助さん。厳格で厳かな式典の後、体育祭と並んで音楽祭というコーナーがあり、音楽部の部長で、寮の部屋の二段ベッドの私の上に寝ている阿部君が「何かやろう」「カルテットを組もう」と言い出し、先ず、久里浜で私に歌心を投げかけた天神林君(8漁大)を誘い、次に少し変わり者だけど、ピアノが弾けて、テノールで良く声の通る斎藤継郎君(8漁大)を仲間に入れた。バス(私が担当)がちょっと弱いけれど、ま、いいかと我慢してもらい、練習開始。今は人気がないが、当時はうたごえ喫茶の影響もあり、よく歌われていたロシア民謡から5曲を選んだ。当時は、楽譜を揃えるのにたいへん苦労した。ところが、5曲全部の4つのパートを諳んじていて、五線紙にスラスラと書いたヤツがいる。スゲー!天神林だ。彼は、特殊な才能がある! 本番では無難にこなして、失敗ではなかったが、成功でもなかった。

(雲鷹丸合唱団員 元愛知県楽水会長)

「コロナ禍前、毎年慰問演奏をしていた桧原サナホームにて、筆者は右から3人目」

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