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2017.01.06 15:29

「はやぶさ丸と第五福竜丸」をめぐる本学卒業生および関係者に対するお願い

中田達也(特会)


 かつて水産資料館の階段踊り場に歴代の練習船の写真があった。その中に「はやぶさ丸」もあった。それは、昭和31
42年活躍の練習船であった。『東京水産大学百年史』(1989年)によれば、この船の説明冒頭に第五福竜丸が出てくる。同船は、昭和293月に学術研究の資料として保存させようと政府が買い上げを決定したものである。昭和31年に三重県伊勢市で改装されたこの船は、極東国際軍事裁判で日本側弁護を務めたことで有名な清瀬一郎が文部大臣の時に「はやぶさ丸」と命名した。この船が活躍した11年間は、東京水産大学卒業生でいえば、何期から何期の時代にあたるだろうか。永山政行助教授が初代船長になって以降、この船は、まもなく館山で漁業実習に使われるようになった。佐々木幸康、實谷英生、城戸卓夫船長の名をなつかしく思い出す卒業生および関係者の方も多いのではないだろうか。

 当初、この船の責任者となった熊擬武晴教授に教わった卒業生、また船上で金魚を飼い、朝顔を栽培するなどして残存放射能を測定した佐々木忠義教授(広田重道『第五福竜丸保存運動史』21頁)の話を聞いた卒業生も多いだろう。

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出口氏にインタビュー          (於;安房文化遺産フォーラム、2013年7月)

 図書館のスタッフにも問い合わせたが、「はやぶさ丸」の写真は多く残されていないという。私も、講義等でこの船の意義を伝えようと写真を探したが、写真素材を販売するPIXTAでようやく二枚の鮮明な写真を購入しえたのみであった。館山にも出かけた。運良くNPO安房文化遺産フォーラムに紹介して頂いた出口勝則氏に先の写真をお見せし、当時の様子を伺った(写真)。その方には、船員手帳や船の写真も見せて頂いた。この経験から、「はやぶさ丸」時代の卒業生から当時の写真などを見せて頂けるのではないかと思うようになった。

 現在、この船は都立第五福竜丸展示館(以下、展示館)で多くの来館者を待っているが、展示館資料のうち「はやぶさ丸」時代の資料は極端に少ないという。現在、海洋科学部において開講されている3年次科目「海洋政策実習」を通じて懇意にして頂いている展示館の安田和也氏は、この船の厨房にいた方も展示館を訪れたことがあると教えて下さった。この欄を通じて、そのような方や「はやぶさ丸」に乗船した卒業生、上記の先生方から聞いた話を覚えている卒業生や関係者等から情報や写真等が楽水会に寄せられればどれほど素晴らしいことかと思っている。

 20161月にリニューアルされたマリンサイエンスミュージアムの中に、いつか「はやぶさ丸」の特設コーナーが設けられて、広く一般の方々にも第五福竜丸とこの船の関係の歴史を知って頂きたいと、今から夢を膨らませている。かかる情報を広く募るために、私は、展示館の主任学芸員の安田氏と海洋政策実習で「はやぶさ丸と第五福竜丸」の関係を知った学生にも文章を書いて頂いたので、広く読んで頂きたいと思う。
(東京海洋大学大学院 海洋管理政策学専攻 准教授)
 

~はやぶさ丸と都立第五福竜丸展示館~

安田和也(都立第五福竜丸展示館主任学芸員)

 1956(昭31)年の夏から66年頃まで東京水産大学の練習船として演習航海に使われた「はやぶさ丸」、その前身は1954(昭29)年31日、米国の水爆実験に被災したマグロ漁船第五福竜丸であったことは、ご存知の方も多いと思う。そもそもこの船は、19473月、近海のカツオ漁のための船、第七事代丸(神奈川・三崎港所属)として進水した。戦後の食糧難の時代、貴重な動物性タンパク源供給のために多くの木造漁船が建造されたが、この船もその一つであった。

 GHQは通称マッカーサーラインと呼ばれた漁業制限海域を設け、遠洋漁業が解禁になったのは1952年の4月下旬、つまりサンフランシスコ講和条約の発効によってのことであった。第七事代丸も前年秋にカツオ船から遠洋マグロ船に改修された。さらに神奈川県三崎の船主から静岡県焼津の船主に売却され、船名も第五福竜丸となった。

 水爆実験に遭遇したのは、第五福竜丸として5回目の航海のときであった。焼津に戻ったのは1954314日、被ばくが発覚したのは16日、汚染された船体は5月初めに日本政府に引き取られ、822日東京に曳航、品川の東京水産大学に預けられて放射線の検査が2年近く続けられた。19565月、東大などの調査団により安全宣言がなされ、三重県伊勢市の強力造船所にて、東京水産大学の練習船「はやぶさ丸」へと改造されたのである。

 同船は約10年使われたのち老朽化のために廃船処分となり、1967(昭42)年3月に解体業者へと売却された。エンジンは転売され、金目の物が取り去られた船は、当時東京都民のゴミの埋立処分場であった夢の島に放置された。それがニュースで報じられ、福竜丸保存の声がおこる。

 とりわけ1968310日の朝日新聞「声」欄に掲載された「沈めてよいか第五福竜丸」の投書は、市民の手による保存を訴えて反響がひろがった。翌69年から全国で保存のための取り組みがすすめられていった。木造船の寿命20年を超えていたために船体の破損ははげしく、豪雨で水没寸前という危機もあったが、東京都の協力もあり、1975年春に船体を保存するために発足した財団・第五福竜丸平和協会から都に寄付し、都が保存・展示施設を造成中の夢の島公園に建設することが決まり、1976(昭51)年6月に都立第五福竜丸展示館が開館した。

 昨年は開館から40年、年間10万人前後の来館者のうち約3万人は児童生徒、学生たちの見学でボランティアガイドがお話をする。市民グループにも説明をおこなう。今年は建造70年、古稀を迎える。希少な木造船の資料として長く保存し、原水爆の惨禍を繰り返さないとの願いを発信していきたいと思う。

 

~はやぶさ丸に関する在学生からのお願い~

田辺傑作(海洋科学部・海洋政策文化学科2年)

 私は2016年の夏に海洋政策実習を履修し、東京は夢の島にある都立第五福竜丸展示館で研修を受けた。この研修では第五福竜丸についての歴史的な経緯や未解決な問題について深く知ることができたが、一点だけどうしても腑に落ちなかったことがあった。それは、はやぶさ丸についてである。第五福竜丸についての知見は長い年月をかけて集約され、情報の整理が進んでいるものの、ことはやぶさに関してはそこがまるで歴史の空白であるかのようにぽっかりと穴が開いたように未整理であることに私は衝撃を受けました。私はこの実習の後、主に東京海洋大学の各方面に掛け合い、はやぶさ丸に関する情報を募ろうとおもうようになりました。幸いなことに、楽水会や竹内正一名誉教授のご協力もあって、はやぶさ丸に関する情報は集まりつつありますが、まだ決して充分とは言えません。私は、こうした現状を知ってしまった以上、今を生きる東京海洋大学のいち学生として、中田先生や安田先生とともに、在学中になんとかはやぶさ丸に関するまとまったアーカイブを作ることが使命だと誠に勝手ながら考えるようになりました。そこで、この投稿をご覧になった会員の皆さま、もしはやぶさ丸に関する情報をお持ちでしたらご一報頂けないでしょうか。どうかよろしくお願いいたします。

 

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