メールマガジン

トップ > メールマガジン > 近江町の今昔
2018.02.01 14:13

近江町の今昔

石川県楽水会 吉田 信夫(19漁大)  

本稿は、石川楽水会事務局が平成29年5月27日の通常総会で催行した講演の採録を、講演者の校訂を受けてまとめたものです。

平成29年5月27日 講 演 
まいどさん     穴田 克美

 普通の家庭の主婦をしている「まいどさん*1」です。俳諧のこと、金沢での「おくのほそ道」や芭蕉・曽良・金沢の俳人たちについてならお話しできると思いますが、今回の講演はもともと武野さんが来てお話しする予定でしたが、武野さんの体調が悪くなりまして私はそのピンチヒッターです。

とりあえず「近江町の今昔」と表題はつけたものの講演内容をどうしようか、今までにやったことがない、資料がない、どこから手を付けようかといった具合で、頼りになったのは図書館にあった「近江町市場史」だけでした。それを2ケ月間借りっぱなしでまとめました。また、「まいどさん」会員で近江町に詳しい方からも資料を頂きました。そんなわけですから、どうぞ肩の力を抜いて楽に、こんなのもあるよ・・・
くらいに聞いていただけたらと思います。よろしくお願いいたします。

近江町の今昔

 北陸新幹線が開業して今年で3年目、百年に一度の好機といわれ観光客がどんどん入って来まして、街中で一番スタイルが変わってしまったのが近江町ではないかと思っています。市民の台所であった近江町が、あっという間に観光客の台所になってしまい、土日の食事処では20~30人の行列は当たり前の景色となりました。「まいどさん」は観光客の皆様に「近江町で食事したいなら11時には行って並んで下さい。12時頃に行ったら1~2時間待つつもりでお願いします」と、声高に叫ぶこととなります。今もその傾向は続いていて、観光客でごった返す近江町へ地元の人たちの足は遠のくようです。

「なんとなく行きづらくなったわねえ」というのが、金沢市民の率直な意見でしょうか。それでも古い友人に聞くと「幾つになってもやっぱり近江町が好き! ここで買い物すると、店の人は”お姉さん”と声かけてくれるもん」と、言います。皆さん、近江町では幾つになっても”お兄さん・お姉さん”の掛け声です。それが何とも言えなくてやっぱり足運ばなくちゃと感じてる人も結構います。

季節の旬のものを豊富に、安く商うのが近江町だったのに、近年ではそうしたことも関係なしに一年中店頭に蟹が並んでたりして「これもどうしたものかいなあ・・・」と、地元の者が考えさせられる光景も目立つようになりました。

近江町の由来

 地元では“お”にアクセントをつけて「おみちょ」と言ってますが、田舎者の祖母は「うみちょ」でした。町名の由来ははっきりとはしませんが、近江の国から来て商いを始めたからとか、弓師近江という者が初めてこの地に住まったとか、そんな感じです。400年以上前、金沢城本丸に尾山御坊があった時代、尾山八町(近江町・西町・堤町・南町・松原町・金屋町・安江町・材木町)が形成されますが、近江町は金沢では最も旧い町の一つであり、現在市場では180を超す店舗が営業しています。

近江町以前の市場

 橋場町近くに久保市乙剣宮という神社がありますが、この地を久保市または山崎凹市と言っていました。久保はでこぼこの窪を当てたりします。そして市ですね。山崎は小立野台のことで、石引から兼六園・金沢城がひとつなぎの台地になって浅野川へと傾斜してますが、橋場町あたりが一番低くて(標高16.7メートル)、浅野川が氾濫するとよく水をかぶりました。今の新町から旧今町あたりに旧く青物中心の市場があったようです。別の言い方をすれば、金沢の郊外、南部(窪や久安)で作られた作物が集められ、物流交換があって賑わいがあり、ここに市が立ったことが始まりではないかということです。その記述は古く白山宮三宮記(1312年)に見られ、鎌倉時代のことです。

市場の移転

 前田利家が城へ入城(1583年)頃から元禄期にかけて、金沢には二つの魚市場がありました。犀川口の魚屋町市場(今の竪町)と浅野川口の袋町市場(現在のはこまちビル後ろ、旧北國街道)です。犀川口の市は安宅、本吉方面で獲れた魚が、浅野川口の市は宮腰、大根布、七尾方面で獲れた魚がそれぞれ集められ市が立ちました。

元禄年間(1690年)には大きな火災で二つの魚市場がともに焼けてしまい、その後に二つの市場が移動・合併して近江町市場になったそうです。なぜ近江町の方へ移ってきたかというと、新鮮な魚を扱うのにぜひとも必要な雪穴・氷室があったからです。また旧北國街道が袋町市場あたりで、文字通り袋状に曲がって通行の妨げになっていたこと、宮腰から直線で魚を運ぶのに近江町のほうが都合良かったなどの条件から選ばれたようです。ちなみに、当時の殿様が召し上がった魚というのは、鯛、キス、スズキ、伊勢鯉(ボラ)などで、庶民には高級魚でしたね。

惣構掘

 金沢城をぐるっと囲んで慶長4年(1599年)頃から造られた二重の掘、内惣構掘と外惣構掘です。400年前の惣構堀の形は時代の中で失われつつありますが、その名残を近江町の中で見るのも興味深いものがあります。

近江町市場の始まり


 近江町市場(エムザロ)*2

 既往の資料によると享保6年(1721年)というのが出て来ますが、近江町の始まりが何でこの年なのかは不明です。五代藩主前田綱紀の時代ですが、傷んでいた金沢城を大々的に修理したり、綱紀自身が学問好きということもあって豊富な書籍が収集され「加賀は天下の書府」と称されました。近江町市場も殿様の御膳所として確定し、多くの生鮮食料品が一箇所に集められました。そして、町の裕福な商人が魚問屋を創って生鮮食料品を独占的に扱い、仲買に卸す価格の20パーセントの利益を認めてもらう一方、月毎に町奉行の検閲を受けなければならなかったようです。上等の魚はほとんど城へ納められ、全体の7割くらいは城下の武士たちの口に入ったようです。後の残りの小さな魚は天秤棒で街中を振り売りしました。

江戸時代、加賀藩の絶大な庇護の下に推移し、物流も統制されていたのが当時の近江町の姿です。

近江町市場の激動期

 明治に入り、藩主前田家も東京へ引き上げて、武士たちは庇護を失い没落します。加賀藩が盛んな頃、江戸、京、大阪に次いで12万人位あった人口が、9~8万人に激減、街中も荒れて商いも大変な時期を迎えます。10人に1人がその日暮らしという有様でした。

明治12年頃になると、青物が売買されるようになって、住吉市場(現在のエムザ裏通りあたり)が開設されます。ここは昭和41年、西念に中央卸売市場が開設されるまでの間(88年間)、青物を扱いました。近江町市場は鮮魚の卸売専門になったようです。

明治37年(1904年)にまた火事が出て253戸を焼失し、それを機に近江町市場は「官許金澤青草辻市場」として再スタートしました。大正14年にはアスファルト舗装道路ができるなど、時代を先取りした感がありました。昭和20年頃は、敗戦でヤミ市場も。昭和31年には金沢で初めてのアーケ ードも設置されました。

昭和41年(1966年)、西念に中央卸売市場が開設され、近江町市場は小売市場へと変化してゆきました。

平成21年の再開発で「近江町いちば館」がオープン、市民の台所のシンボルとして「官許金澤青草辻近江町市場」と書かれた標柱が建てられ、現在に至っています。

(長安会員補足)
 卸売が西念に移転する前、近江町市場には20数軒の問屋があった。当時は、それぞれの問屋が産地から荷受して販売していたが、それを一箇所にまとめようということで西念に移った。そのうちの問屋10社で創ったのが今の石川中央魚市(株)で、石川中央魚市の社員6名により別途に創られたのがウロコ水産(株)と聞いています。

             「官許金澤青草辻近江町市場」と書かれた標柱

おもしろ「近江町」

1.市媛神社
 近江町市場の氏神。金沢の内惣構が造られた頃、神社仏閣の移転が命じられて、卯辰山の観音院境内に移され、明治になって240年の歳月を経て近江町(現在の尾張町)に遷座しました。境内にある一の鳥居は神明造、二の鳥居は明神造で形が違う。


     1、市媛神社の鳥居

2.市場駐車場
 昭和40年の建て替えの際、ツバメの巣が犠牲になった記憶をとどめるため、Pのマークが二股に分かれている。


 2、駐車場の二股に分かれたPマーク


3.エレベーター
 駐車場から降りてくる時に間違わないよう、タイ、ウシ、バナナで区別している。

   

               3、間違わないように印されたエレベーターの表示

4.穴

  4、かつて雪穴のあったところ


 近江町食堂のところに雪穴・氷室があり、魚を保存したと言われている。もとは雪捨て場だったのか。近江町の「穴」と書くだけで郵便物も届いたと 言う。金沢には氷室が湯涌、玉泉院丸、兼六園山崎山などあちこちにあった。

 

 

 

5.エムザ3階
 住吉市場があった時の住吉神社がある。


  5、エムザ3階にある住吉神社


6.通りの中の段差

6、かつて内惣構堀を渡る橋があった

 近江町市場の中に慶長4年に造られた西内惣構掘の跡(段差)が見られる。世界の食品ダイヤモンドの裏口にある階段や、近くの肉屋さんの前通路の傾斜などである。この時代、あまり橋は架けられなかったが、今の北形青果から世界の食品ダイヤモンドへ至るところにセカイ橋(セッタイ橋)があつた。西外惣構掘は今も残る鞍月用水で浅野川へ注いでいる。惣構堀は城側を高くして土居を築き、高低差は10メートル程あった。

 

7.辰巳用水
 寛永年間に造られた辰巳用水、その分流が近江町の中を流れていた。現在は近江町用水と名前は変わっているが、水は流れているのだろうか? マンホールの蓋に3箇所 ”辰巳用水” と。

8.アーケードの女探し
 市媛神社側から近江町アーケード街を見下ろすと女の文字が浮かび上がる。

9.電柱
 博労町入り口にある電柱、実は50年前に電話線工事で全長2キロの地下道を掘った時の排気塔である。

10.金沢で一番古いうどん屋さん
 尾張町の加登長本店がそれ。

7、辰巳用水と記したマンホールの蓋

8、アーケードの女の文字、今ではビルが邪魔して分からない

 

9.電柱、実は電話線工事で地下道を掘った時の排気筒を利用

 

 

 


 
 
 
 
 

10、金沢でいちばん古いうどん屋さん

金沢・近江町市場の歴史

金沢での市場の始まり      久保市(山崎凹市)、今の新町・旧今町あたりに青物を中心の市場があった
            (白山宮三宮記,1312より)
藩政初期~元禄期            金沢には犀川口(魚屋町市場)と浅野川口(袋町市場)の二つの魚市場が                                                 
            あった。
 1580 ( 天正 8) 年  この頃、近江町は金沢で栄えた「尾山八町」の一つ

 1583 (天正11) 年       前田利家の入城

 1599 (慶長  4) 年       前田利長、内惣構掘の築造を命ずる

 1631 (寛永 8) 年       城下で起きた大火を機に、辰巳用水を惣構掘へ引き込んで防火と防衛の役割を
           強化した。
 1690 (元禄 3)年        大火の後、二つの魚市場が合併して近江町へ移転

 1721 (享保 6)年     五代藩主前田綱紀の時、近江町は殿様の御前所として確立、近江町市場の原形が
            作られた                 

 1879 (明治12) 年        青果の卸売市場「住吉市場」を開設、近江町市場は鮮魚の卸売専門となる

 1904 (明治37) 年        火災で253戸を焼失、それを機に「官許金澤青草辻市場」として新しく
             スタートを切る。         

 1925 (大正14) 年        近江町に金沢初のアスファルト舗装道路完成

 1945 (昭和20) 年        魚類の統制が撤廃されてヤミ市場となる

 1946 (昭和21) 年        戦後の飢えに苦しむ市民に豊漁のイワシを販売

 1956 (昭和31) 年        アーケード設置

 1966 (昭和41) 年        鮮魚と青果の卸売部門が中央卸売市場(西念町)へ移転、近江町市場は小売市   
           場的商店街へと変化         

 2009 (平成21) 年       「近江町いちば館」がオープン、市民の台所のシンボルとして「官許金澤青草辻
           近江町市場」と書かれた標柱が建てられた


注)石川楽水会事務局

*1 「まいどさん」は「こんにちは!」という意味で金沢市の観光ボランテイアガイドです。このガイド   
   は完全無料です。約350人在籍しています。
   穴田さんは古株で大活躍しており、芭蕉や各種石碑にも造詣が深いので「ほっと石川観光マイスター   
   」にも認定されています。

*2 水産伝習所を開設した加賀藩士の関沢明清も、子供の頃は必ずこの近江町市場にお使いに行っていた
   と推察される。

TOP