クラゲに救われた水族館
幡谷 雅之(15増大)
日本動物園水族館協会に加盟している70近くの水族館の中で、最も古くて小さいのが、山形県にある鶴岡市立加茂水族館である。日本海に面した断崖絶壁のトンネルのすぐ隣にある。一見大したことなさそうだが、実は世界一の展示種数を誇る約40種類のクラゲがいる。館長の村上龍男さんは、「これほど、老朽、弱小、貧乏の三拍子揃った水族館は他にない」というが、この水族館の裏には、人の心を揺さぶる物語があった。
加茂水族館は昭和5年(1930)に地元有志により設立された「山形県水族館」を前身とし、同31年に開館した県内唯一の水族館である。以後半世紀近く入館者数は伸び悩み、とうとう「落ちこぼれ水族館」という不名誉な称号までつけられてしまった。
一方、東京・原宿生まれの村上さんは山形大学農学部を卒業後、民間会社を経て同41年に鶴岡市立加茂水族館に勤務するようになった。恩師に勧められ、新装オープンしたばかりの水族館に職員として入ったのである。彼の波乱万丈の人生は、ここから始まる。
翌42年に鶴岡市は加茂水族館を民間会社に売却し、手を引くことになった。事情がのみ込めぬまま、27歳の村上さんがいきなり館長に任命された。環境の激変に戸惑う村上さんらに、さらなる試練が押し寄せた。売却から4年後、民間会社の経営不振から水族館は閉館されることになった。残された職員4人は水族館に泊まり込み、魚や動物の世話に奔走することになった。
困窮ぶりを知った地元の人たちから募金や餌などが寄せられ、村上さんたちは必死に耐え忍び、先の見えない暗闇の日々が続いた。翌47年に地元出身者が経営する会社が新たなオーナーとなり、水族館はどうにか再出発することになった。一度地獄を知った職員は、入館者を増やそうと必死になり、色々な集客策を懸命に打ち出した。
当時の加茂水族館が起死回生を願って、まずはアライグマやアシカ、ハナグマやコツメカワウソ、ラッコの導入など、その時々に話題となった生き物をしゃにむに集めた。また、「世界のナマズ展」や「アフリカの魚展」「シーラカンスと古代魚展」などの特別展も開催した。しかし、周辺に公立の大型水族館が次々にオープンしたこともあって、結果に結びつかなかった。入館者数は鶴岡市立時代の20万人台を大きく下回る、10~15万人台に低迷し続けた。
とうとう「落ちこぼれ水族館」という不名誉な称号までつけられてしまった。村上館長は「よその水族館がやったことの後追いばかりで、マネでしかなかった。こちらは金もなく、規模も小さく、内容も個性もない水族館だった。本当にみじめだった」と当時を振り返る。職員の給与は据え置かれ、老朽化した施設の改修や補修もできない状況が続いたが、市から援助は一切なかった。金もなく、内容も個性もない小規模な水族館にできることは、よその水族館がやったことの後追いばかりで、マネでしかなかった。
職員の給与は据え置かれ、老朽化した施設の改修や補修もできない状況が続いた。二度目の閉園の危機が刻々と迫りつつあった。水族館の誰もが、もはや起死回生はないと諦めていた。
沈没寸前の加茂水族館は平成9年(1997)、「最後の悪あがき」(村上館長)に出た。当時流行っていたサンゴの企画展「生きたサンゴと珊瑚礁の魚展」である。二つの小さな水槽で、半ばやけ気味の大勝負に打って出た。結果は案の定散々なもので、この年の入館者数はわずか92000人に終わり、過去最低を記録した。
しかし、世の中はわからないものだ。 企画展の準備をしていた飼育員が、サンゴの水槽から小さな生き物が泳ぎ出すのを偶然、見つけたのである。閉館寸前の加茂水族館を救ったのが、クラゲだったのだ。
ある日、サンゴ水槽から小さなクラゲが湧(わ)いてきた。その不思議な姿に圧倒され、最初はそれが何の生き物なのかさえ分からなかったが、とにかくそのクラゲを展示してみたところ、大人気となった。村上館長はクラゲが「これまでと違う、大きな力を持った生き物だ」ということに気付いた。振り返ってみると、あれほど追い詰められていなかったら、クラゲの隠れた美しさは発見できていなかったのかもしれない。これをきっかけに、館長はこれからクラゲに力を入れ、客を集めることを決めた。
ところが、ここにまた新たな壁にぶつかった。クラゲについての知識を持っていたスタッフは誰もいなかった。クラゲは寿命が短く(長くても四ヶ月)、展示を続けるには、人間の手で繁殖させなければいけなかった。しかし、クラゲの卵があまりにも小さいため、見えなかった。クラゲの飼育に必要な顕微鏡、保温箱、クラゲ専用の水槽などを買うお金は一切無かった。
水槽内での受精に何回も失敗したが、一回だけ成功した。「世の中、神様いるぞ」と村上館長は誇らしげに語った。 そこから、だんだん知識と経験を積み重ねながら、クラゲの種類を増やしていった。やっと八種類のクラゲが集まったところで、館長は胸を張って「日本一」と名乗ったが、誰も認めてくれなかった。
ここで、村上館長は新たな発想を生み出した。それが、今の「クラゲレストラン」の誕生に繋がった「生のクラゲを食べる会」だった。これを提案したとき、誰も本気にしてくれず、館長はバカにされた。それでも、「他の人がやらないことにチャレンジすることに価値がある」と村上館長は信じ続けた。意外にも、「生のクラゲを食べる」は効果的で、それをきっかけにクラゲ入りの饅頭とようかんも作られた。これらのクラゲ商品は多くの注目を集め、全国放送のテレビ番組にも取り上げられた。お陰で入館者が増え、クラゲの展示をさらに増やしていった。
さて、ボストン大学名誉教授の下村脩さんは、平成20年(2008)に、オワンクラゲの緑色蛍光タンパク質の発見でノーベル化学賞を受賞した。そんな下村先生と村上館長は縁も繋がりもなかったが、唯一の共通点は、「クラゲに救われた」ということだった。村上館長は下村先生に手紙を書き、お祝いを述べ、同館のオワンクラゲは発光しないことに触れた。これをきっかけに、村上館長は下村先生との交流が始まり、オワンクラゲを発光させるアドバイスまで受けた。館長の長年の夢であった下村先生の加茂水族館への来訪は同22年4月ついに実現した。下村先生は、40種近くのクラゲと同館の繁殖技術に非常に感心し、『想像以上だった』とコメントした。そして、帰る間際に「加茂水族館に来たのは『村上マジック』かな」ともらした。この小さな水族館は確かに人を惹きつける特別な力を持っている。それは、クラゲの不思議な魅力なのか、「村上マジック」なのか。水族館の今までの成果に対して、村上館長は「知らないからやった。今の苦労を知っていたら、やっていなかった。知らないのも力だ」と語った。
鶴岡市立加茂水族館HP https://kamo-kurage.jp/