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2021.01.28 17:23

祝叙勲 春日真佐子さんとの思い出

片平礼子(19増大)旧姓:秋間

 2020年 秋の叙勲『旭日双光章』受章おめでとうございます

 1967年4月8日 東京水産大学の入学式の日、私は初めて春日真佐子さんに会いました。 合格発表から入学式の日まで私の気持ちは不安と心細さで一杯でした。半世紀も前の話です。当時学生諸君はほとんどが男子、女子は一学年に1、2名という状況でした。発表では私が選択した増殖科は女子1名。勉学も心配でしたが、そんな男子ばかりの中で自分はやっていけるのだろうかという不安の方が大きかったように記憶しております。ふるさと静岡県清水市(現静岡市)の親元を初めて離れ東京で生活することもワクワク感と不安が拮抗しておりました。そんな思いで迎えた入学式当日、父に付き添われ会場につきますと、増殖科にもう一人の女子学生がいたのです。淡いグリーンのサングラスをかけパーマヘアーのメキシコからの留学生、春日真佐子さんです。私の気持ちは一気に楽になりました。男子同級生の中で女子一人、気丈にふるまい負けてなるものかと自分で自分の気持ちを鼓舞しつらい決意で臨んだ当日、彼女の姿は女神のようでありました。父もそれを見て少し安心し、水産講習所時代同期の東京水産大学製造科 野中教授と、東洋水産㈱ 森社長に私を託し清水にもどりました。そこから真左子さんと私の共助な学生生活が始まります。

 真佐子さんは非常に語学に堪能でした。留学生ということもあり日本語での会話が普通に伝わるか心配でしたが全く問題ありませんでした。さらにスペイン語、ドイツ語、英語と巧みにこなし、四ケ国語を使いこなす見事なマルチリンガルでした。ご両親は長野県からメキシコに移住されており、家庭では日本語、家からでればスぺイン語、高校はドイツ系のスクールに通学されていたようでドイツ語を習得し立派としか言いようがありません。水産大学の1,2年の教養課程では席を並べて授業を受ける事が多くありましたので講義で日本語のわかりにくい部分はノートを見せるとかして内容を伝えたり、外国語では真佐子さんから多くのドイツ語の使い方を教えてもらいました。

 当時の学生寮はかなり古い建屋で寮生の男子学生の皆様はモサタイプの人も多くおられました(失礼)。
 その寮で使われていた言葉と思いますが「イモ」というスラングがありました。何か失敗したしたとか、予想以上にできが悪かったとかに使用されていたと思います。「アッ!イモった!」「あいつはイモだ!」などと使います。真佐子さんも私もこのスラングが気に入りよく使っておりました。おそらく真佐子さんが日本に来て初めて覚えた新語だとおもいます。半世紀たった今でも在日した際に「イモ」を流暢に使いこなしています。「オッス!」も同様です。そして彼女がそれらを使い話すと蛮からではなくチャーミングなのです。
 私達学年にはもう一人の女子学生がおりました。製造科の美智子さんです。一年生の夏、女子をまとめてということで3名一緒に館山実習に参加しました。必須科目ですから単位を取得しないわけにはいきません。遠泳では、真佐子さんは上級クラスの長距離を泳ぐグループ、美智子さんと私は下の方でした。真佐子さんの泳ぎっぷりは力強い正確な安定したストローク、クルーズ船のようです。美智子さんと私はまるでタグボート、随行してくれる救助の和船の気配を気にしながら終盤は死に物狂いでやっと泳ぎ切り、私は桟橋に上がると両足がつって動けませんでした。全く真佐子さんは何事においても、デキル女性でした。真佐子さんは弓道部に所属し練習に励んでおりました。弓道着にきがえ東京砂漠の中、颯爽と弓道場へ向かう彼女は凛として格好よかったです。

学生時代の真佐子さん
学生時代の真佐子さん

 真佐子さんは水産の様々な事に興味をしめし、その知識を吸収しようとする努力と熱意は立派でした。いろいろな場所を訪問し見学しておられました。
 1967年7月、一緒に群馬県の養鯉場に研修とアルバイトを兼ね10日間程、鯉の摂餌や飼育水の管理等を体験するためでかけましたが、真佐子さんと私の真摯な態度は社長から大変気に入られ最終日には赤城山周辺の観光のおまけつきでした。
 1969年8月、彦根水産試験場、醒ヶ井養鱒場を見学した帰りに名古屋の私の叔母の家に泊まった時の事です。夏休み終盤の暑い日、私の従弟は宿題も終わっておらず怠惰な様子でいたところ、真佐子さんは初対面にもかかわらず「宿題をみせてください」と彼に言い、やり残しの数学を解きだしました。私も手伝い何とか宿題を終了させたのです。叔母はこの行為に感動し「息子はメキシコの春日さんに宿題をやってもらった」と、今でも親戚が会す時の語り草になっております。 

 大学高学年になりますと専門課程に進み、真佐子さんは水産資源学の研究室にいち早く3年次の時からかよいだし勉学に励んでおりました。4年生になれば卒論のため全員がそれぞれの研究室に進みます。私は増殖生理学に進み、真佐子さんと共に行動する時間は少なくなりました。その頃だと思いますが、将来の旦那様となられる吉井努氏も水産資源学に進まれ、私の知らないところで密かに友好を深めていったのだと思います。
 1971年3月 大学紛争の中卒業式はありませんでしたが、東京大神宮にて二人の結婚式がとり行われました。そしてヤマトダンシとセニョリータはメキシコに飛び立っていきました。私は吉井氏に「寂しくなっても男子なんだから便所で泣くな!」とエールをおくりましたが、真佐子さんが行ってしまって泣いたのは自分のほうでした。

 時は流れ、2014年12月 初めてメキシコを旅行しました。スペイン語もしゃべれず一人旅でしたので不安で一杯でしたが、メキシコシティ空港に到着し出迎えの真佐子さんを見つけた時は再び女神降臨です。彼女の後を片時も離れないようにして吉井夫妻の暮すシナロア州マサトラン市に移動しました。
 吉井夫妻は帰国後メキシコシティで生活しておられたそうですが数年後マサトランに移ります。
 メキシコに着いてまず感じたのはなんと広い国だろうということです。太平洋側から大西洋側まで1時間の時差があります。移動は主に飛行機です。
 吉井夫妻の住まいはマサトランの海岸に面した高層マンションの20階です。ベランダから眺める太平洋はただただ広大で限りなく、穏やかな日は20階から見下ろす白い砂浜と海、様々な海鳥、マンタやイルカも見られるそうです。私は魚群が群れて球状になっているところを見ることができましたがNHKダーウィンの世界そのものでした。夕日が沈む真っ赤な海、月の明かりがつくる海上の道、自然の厳かさを感じたひと時でした。

ポサダ祭りにて  従業員と真佐子さんご家族 中央左から長男の吉井洋一氏、夫の吉井努氏(19増大)、真佐子さん

 吉井氏はすっかりセニョールになっておられました。夫妻は1979年に「アリメントス・カイ」という会社を創設し、小田原の蒲鉾会社「鈴廣」より技術指導を受けてメキシコ産のグチすり身の輸出から始めました。その後小田原蒲鉾に向かない腰の弱いすり身を使ってジャガイモと混ぜたフィッシュナゲットをメキシコのスーパーに出荷するようになり現在にいたっております。メキシコの人達に好まれる味、形、触感等を開発し従業員200人超の大きな会社で、この年はちょうど創立35周年のお祝いの年でした。12月はポサダというお祭りがあり、従業員とその家族が社内の広場に集まり食べたり踊ったり歌ったりとおおにぎわいです。中でも一番盛り上がるのは抽選会です。景品がTV、ステレオ、布団、とにかく豪華で空くじ無し!社員の家計を大きく助けているのです。

 マサトラン市内では市会議員の役職の真佐子さんが建設に携わった競技場フィールドや真佐子さんの兄上ルイス氏が建てた水族館等見学しました。
 マサトランを後にし、メキシコシティの真佐子さんの一番上の兄上宅にお邪魔しテオティワカンの遺跡、太陽のピラミッド、市内観光等盛りだくさんの内容で充実した10日間のメキシコの旅を終了しました。私が見たのはメキシコのほんの一部ですが沢山の感動を得ることができました。


Mexico City ティオティワカン遺跡にて
右が真佐子さん、左が筆者

 真佐子さんの熱意と努力の結果がこの度の叙勲につながったと思います。まさに受章すべくして受章されたのです。本当に名誉な事であり私達の誇りです。おめでとうございます。これからも、メキシコと日本の為に叡智をつくし活躍されるよう願っております。

   カスガ オサカ エスペランサ マサコ 略歴  

1971年(昭和46年)東京水産大学 水産学部増殖学科 卒業
メキシコ シナロア州立自治大学・法科 卒業
行政 民間 市民団体の各種プロジェクトに参画  マサトラン市会議員を経て
現在 アリメントス カイ(カイ食品)㈱ 取締役社長 マサトラン日墨協会会長 水資源保全委員会理事

 

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