充実の学生生活(寮生活編)
溝口 扶二雄(8増大)
私は、昭和31年入学、35年卒業の大学8回生です。最初の1年間だけ久里浜の校舎および寮をあてがわれ、2年目からは今の品川キャンパスの一部に移りました。久里浜の校舎および寮は旧日本海軍通信学校の跡地で、戦時下に急造された木造建築で、教室の仕切りも不完全、床は波うち雨漏りやすきま風に悩まされる毎日で、最悪な環境でした。ただ、私たち8回生の久里浜での学生生活は1年だけで解放され、幸運でした。なぜ、久里浜に?それは、太平洋戦争で日本が負けたからです。連合国軍(GHQ)は日本を占領し、都合のいい拠点を捜しては接収し、その過程で本学が対象になったからです。久里浜に約10年。その間に学制改革により、水産講習所から東京水産大学に移行はするが、教育・研究施設が極めて不備なため、大学として認可されるかどうかの瀬戸際でした。そのため当時の教職員および学生たちの涙ぐましい努力が伝えられています。昭和28年6月、本学学生約600名が “我らの校舎を返せ!” と東京の四谷から越中島まで、整然とデモ行進を行い、世論を大きく動かした。また、当時の松生義勝学長は、なんと連合国軍司令長官マッカーサー元帥に本学の窮状を訴える嘆願書を送りつけている。(東京水産大学百年史を参照)
久里浜は神奈川県横須賀市にあります。嘉永6年(1853年)米国東インド艦隊のペリー長官が黒船で来航し、日本の長い鎖国からの開国を迫り、翌年、日米和親条約を締結させた歴史に残る港です。私は、昭和31年に入学と同時に、同じ構内にある自治寮に入寮した。私の部屋は15坪くらいの広さで、8人部屋。真ん中に通路があり両側に4人ずつの雑魚寝。毎晩のようにストームと称する、酔っぱらった2年生が部屋になだれ込んできて、くだらないお説教を始める。私は要領よく、聞いているふりをしてまったく無視する。入寮して十数日がたったころ、新入寮生の歓迎会が催された。昼間、1年生対2年生の相撲大会。夕闇迫るころから雑草がぼうぼうの校庭で、飲み会が始まる。アルマイトの食器に安酒をなみなみと注いでもらい、一気に飲む。高校まで酒を飲んだことがないので、自分の酒量のキャパがわからない。ぶっ倒れた(らしい)。星がキレイだぁ。次のシーンは自分の部屋のふとんの中。誰かが、おそらく2年生が、校庭から運んでくれたのでしょう、感謝。ただ、?、カレンダーを見ると、歓迎会の日は“きのう”ではなくて“おととい”になっている。中一日がないッ!つまり、三日酔いである。
寮の食事は決められた量しかない。ほとんどいつも腹を空かしている。同室の2年生、1年生も金持ちの息子は居そうもない。そんな時、私は悪巧みを思いついた。久里浜の北西方面にゆるやかな丘陵地帯があり、そこには“みかん畑”が広がっている。そこのみかんを少しだけ拝借して空腹をしのぐことにした。同室の1年生で、後にストームがイヤで寮を出て行った天神林宏明君(8漁大)を見張り役に誘った。部屋にある備え付けのバケツを一つずつ持ち、みかん畑までは寮から歩いて30分くらい。そのバケツは、まさに多目的バケツで、部屋の拭き掃除に使うのが主目的ではあるが、それよりも、酔っぱらった者がゲロを吐くときに使うほうが使用頻度は高いと思われる。夕刻、みかん畑に着く。まだ農家の人たちは作業中なので、われわれ二人は体を隠す窪地を捜して身を潜める。眼下に波一つない鏡のような久里浜湾が一望できる。農家の人たちが作業を終わり、家路につくのを待つ。太陽が水平線に沈みかけるとき、西から東へ、一条の虹色の光線が海面を一直線に走る。美しい。窪地に潜んで、あたりが暗くなりかけて来た頃、肩を寄せ合っている天神林君が低い声で歌を歌いだした。「オイ、でかい声だすなよ」。農家の人に聞こえたら大変だ、と私。それでも彼は、声をひそめて歌い続ける。「オイ、それ、いい歌だな」私は歌にはまったくエンがなかったが、きれいなメロディに耳を澄ませた。「なんて歌だ?」「郵便馬車の馭者だった頃」「うーん」。また歌う「アムール河の波」。「それもいいね」「どっちもロシア民謡だ」「うーん」「ミゾグチ歌え」「オレはダメだよ」。寮の部屋に戻り、まだ小さくて酸っぱいミカンではあったが、皆に喜ばれたのは勿論である。後で分ったことであるが、私の相棒の天神林君(私はテンジンと呼んでいた)は有名な「合唱団白樺」の団員であった。
殺風景で今にも倒れそうな我らが寮ではあるが、運動部の活動は地道に進められていた。毎朝5時に「ボート部、起きろ!」の声が廊下に響き渡り、一日が始まる。放課後は、柔道、空手、剣道、相撲といった、武道系のクラブの活動が活発だったように思う。我が部屋のメンバーもほぼ全員が部活に参加していたが、時々変わったことをしていた。夜、消灯して「ロマンス大会」と称する“ のろけ合戦” を室長の山本尚二さん(7製大)のリードでやっていた。それぞれ故郷に残してきた彼女とのあること、ないことを適当に脚色してのろけ合うお遊び。さらに我が部屋には、代々引き継がれていたものが二つあった。一つは、毎年の夏休みに必ず出される毎年同じ数学の高次方程式の宿題50問。大学で宿題が出ることに驚いたが、その解答が代々部屋に継承されていた。それを丸写しして提出すれば楽に“優”が取れるのに、不思議なことに誰もそれをしない。出題してくれた教授に失礼と思えたのか、あるいは自分のプライドが許さないのか。もう一つは、オランダの産婦人科医ヴァン・デ・ヴェルデ著「完全なる結婚」。世界的なベストセラーで、How to sexを詳しく指南している本。大学に入るまで受験勉強だけに集中してきた19歳前後の男達にとって、ドキドキする内容が記されている。部屋の8人のうち、恐らく6人以上は童貞だから無理もない。たしかその本は英語かドイツ語で書かれていたように記憶しているが、はたして…。
私の部屋から、あと2人を紹介しましょう。私とマクラを並べていて、3年次に柔道部の主将になる親友の吉良政利君(8漁大)。最後の捕鯨船団のキャッチャーに乗っていた。噛みつきそうな顔をしているので、後輩には恐れられていたようだが、本当の彼は物凄く繊細で、おばあちゃん子だった。今は故郷の小高い丘の大きな御影石の中から、豊後水道越しに大好きな太平洋を眺めている。もう一人は、羽山泰夫さん(7漁大)。一見優しい、人当たりもいい、ところが本当の“海の男”である。どうしても自分のヨットが欲しい。60歳まで陸上の仕事をして金を貯え、アメリカに渡り、全財産を注ぎこんでヨットを買い、カリフォルニアから単独太平洋横断を敢行し、途中命の危険を冒しながらも、成功した。資金作りに一番苦労したでしょうが、堀江謙一氏のようなマスコミとの上手な付き合いは苦手のようで、「貿易風を突っ走れ!」という一冊の本を上梓し、あとに続く若者たちのために詳しいデータを披露しているのも、いかにも羽山さんらしく、素晴らしい。もちろん、東京水産大学ヨット部の出身である。
夏休みなど長期の休暇の時は実習とか合宿などが予定され、長期間のバイトは出来にくい。久里浜ではベースのバイトをたまにした。ベースとは、久里浜から北へひと山越したところにある浦賀の米海軍基地のこと。夕方、無蓋のトラックが寮に来て、20人近くの寮生が乗り込み、ベースに連れていってくれる。米軍の軍艦に乗り込み、主に船倉や冷蔵・冷凍庫での作業が多い。オールナイトで、確か千数百円も貰えるので、割のいいバイトだが、翌日はまともなことが出来ず、浮浪者みたいな恰好の自分に情けなくなる。年末は必ずバイトで稼いだ。百貨店や地下街の店で、食品の販売や発送の荷作りが多かった。時期的にクリスマスキャロルが鳴りっぱなしで、今でも年末になると、少し苦目の思い出に煩わされる。夏休みには、高島屋のお中元の配達を自転車でした。1個8円。タオル1本でも、ビール大瓶20本1箱でも同じ。ただし、敵もさる者。20個を一つの単位にして、軽いもの、重いものを憎らしいほどうまく組み合わせてバランスをとっている。文京区の担当なので、東大の構内やサトウハチローの家にもよく行った。東京って、なんでこんなに坂が多いんだ。重いものを荷台に積んで、坂道を登ると、自転車の前輪が浮いてしまって、まともに走れない。ポロシャツ一枚でも汗だくだ。あることが印象に残っている。配達に行った家の中に、体に障害のある人がかなり多くいたということ。今と違って、障害のある人を世間の目に晒さないようにすることが、普通だったからだと思わる。座敷牢も見たことがある。
(雲鷹丸合唱団員 元愛知県楽水会長)
注)羽山さんは太平洋の横断航海の後、半年かけて日本(北海道を除く)一周を果たし107港に寄港している。