充実の学生生活(柔道部 編)
溝口 扶二雄(8増大)
入寮して間もないころ、運動部のどこかに入るように案内がきた。私は野球が好きだし少し自信があったので、野球部を申し込んだ。ところが、野球部はいつまで経っても練習を始める気配がない。そのうち、ひとつ置いた隣の部屋のある人がやってきて、私の首根っこを掴み、お前、ちょっと背が高いから柔道部に入れ!と言ってきた。いや僕は野球部に入るつもりですから、と断っても全然聞き入れてくれない。野球はボールやバットなどの消耗品に金がかかるけど、柔道は道着だけ買えばあとは金はかからない、と強引に入部させられた。
その人は、翌年柔道部の主将になる松生睦(7製大)さん。そう、当時の学長で戦中、戦後水産関係の教育機関を常に先頭に立って引っ張ってきた松生義勝学長の息子さんでした。あまりしゃべらないし、大声も出さない。が、迫力がある。大学の構内にある柔道場に引張っていかれ、練習風景を見る。ウワー、ほこりだらけ。今と違い本物の畳なので、ドタバタすると後から後からほこりが出てくる。
5月になって合宿が始まる。合宿といっても部員はほとんど寮生なので、自分の部屋からふとんを抱えて道場に持ち込むだけ。稽古は朝と夕方の2回になる。夜は道場の畳の周りにふとんを敷いて寝る。20数人が一斉に寝るとイビキがすごい。気にしていると一向に眠れない。眠れないと体力が落ちる。いいことに気が付いた。イビキの一番デカイ人のイビキのリズムに自分の呼吸のリズムを合わせる。すると、いつの間にか深い眠りに落ちる。
久里浜校舎は、陸の孤島である。川と山と警察予備隊(現・自衛隊)と少し離れたところの海に囲まれ、出入り口は一か所しかないので、稽古をサボるとすぐバレる。ある日、少し熱があって頭痛がするので、一日だけ稽古を休みたいと申し入れたところ、松生主将はジロッと当方を見ただけ。別の先輩の松原さん(7増大)は少しぐらいの熱なら出てこい、と静かに言った。柔道部員としての4年間で、この時が一番重圧を感じたときだろうか。近頃でも、各地各スポーツにおいて、いじめや暴力沙汰が後を絶たないようですが、東京水産大学の柔道部には、そのようなことは一切なかった。杵淵政光先生(オリンピック東京大会柔道審判員および形演技)の教えが根底にあったからでしょうか。稽古は厳しく、先輩たちの顔はおっかなかったけれど、紳士的だった。
昭和32年から35年頃が、東京水産大学柔道部の一番強い時代だったろうか。関東甲信越・国公立大学柔道大会の団体戦で、昭和32年と35年に優勝している。32年の主力は7回生で、松生主将を始め中沢さん、図師田さん、松原さん、武上さん、笠井さん、誰かさんと、20貫(75kg)クラスがズラッと揃っていた。当時はまだ尺貫法で、体重無差別制ですから、“柔よく剛を制す”とは言っても、相当のワザの違いがない限り、やはり体重の多いほうが有利で、2貫違うと今の1~2階級、4貫違うと今の2~3階級の違いに相当した。その後、筋肉量の違いは競技の強弱に比例するという欧米からの圧力(?)により、体重別階級制が導入された。
我々8回生は、入学時は有段者が5~6人いたが、全般に小粒で、16~17貫クラス。しかも体が硬く故障が多かったと記憶している。3年次に主将になる我が友 吉良政利君は、身長160cm、体重16貫(60kg)、大分・臼杵高校時代から主将をやっていて、黒帯は稽古により擦り切れて半分白くなっていた。伝家の宝刀“一本背負い”が決まると、相手は棒状になって宙に浮き、大きな円を描いて全身が同時にタタミに叩きつけられる、見事な一本。だが、ただし、本番で決まったことは、一度も、なかった。
7回生のそれぞれの得意ワザを、曖昧ながら振り返ってみたい。松原さんと図師田さんは内股、武上さんは大外刈りと大内刈り、中沢さんは支釣込腰、松生さんは大外刈り。私は松生主将の練習台をよく務めた。大外刈りがスパッと決まればいいが、決まらないと首に手を回す大外巻込になり、受け身が取りにくい。だから、痛い。
今の品川キャンパスの一部に4学年が揃うと、強い三年生(7回)と強い一年生(9回)の間の我々二年生は立場が微妙になり、入学時からの有段者もそれぞれの事情で退部する者が出て、より弱体化した。ただし、特筆ものの出来事があった。松生主将に連れられ、柔道の総本山である講道館で稽古をさせてもらえた。「柔道は、精神が身体の動きを制御する、高度な規律に基づくスポーツである」と。その嘉納治五郎師範の肖像画を仰ぎながら、二百畳以上もあるタタミの上での何十組かの、ところ狭しの過密な乱取り。各地区、各学校等の所属の違う知らない者同士の乱取りだから、手抜きは出来ず、真剣そのもの。ボーとしていると、その渦の中に入れない。思い切って、目の前の自分よりふたまわりもデカイ相手に挑戦する。組んで、数秒の動きで、倒されている。体の接触はなかったように思えるから、空気投げ?空気投げという、柔道の正式なワザがあるが、次に投げられた時、空中で考える。あ、内股だ。当時の日大や明大のレギュラークラスの3段、4段は滅法強かった。
講道館の帰りが楽しみだった。中央線の水道橋まで歩き、山手線の秋葉原駅のホームで、松生主将がアンパン1個と牛乳1本を買ってくれる。20人くらいが、いかにも柔道部員らしい恰好で、ニコニコしながらパクつく。んん。
私が四年になった時、主将は三年の吉永志朗君(9製大)になった。彼は合宿の朝練でもよく走る、スタミナの塊だ。道場を出発し、楽水橋を渡って、東八山橋を越えて、品川神社に達する。ここの石段は、東海道五十三次に因んで、53段ある。ここを三往復、そしてまた走る。この品川神社のすぐ北側には、丁度この頃デビュー曲「この世の花」が大ヒット中の、歌手島倉千代子の実家があった。
注)筆者は東京海洋大学柔道部後援会の会員
(雲鷹丸合唱団員 元愛知県楽水会長)