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2024.09.02 14:25

崩壊の危機に直面する沿岸漁業(2) アサリ

乾 政秀(18製大)

◆アサリと干潟の原風景

著者は幼年期を横浜市北部で過ごしたから、海が身近にあったわけではない。ただ天秤棒を担いで、「あさり~、しじみ~」と声を掛けながら行商する魚屋が時々現れた。おそらく東京湾で採れたアサリを売り歩いていたに違いない。
 アサリを産する東京湾の干潟を初めて見たのは小学校3年生のときである。父親が結核治療のため県立長浜療養所(現県立循環器呼吸器病センター)に2年ほど入院していた。京急富岡駅から長い坂を登った山の上にその病院があった。敷地からは真っ青な東京湾が望め、根岸の方角には広大な干潟が続いていた。春には大勢の人が干潟に繰り出し、潮干狩りに講ずる姿が見られた。
 しかしこの根岸湾はまもなく埋め立てられて工業地帯に変貌した。また飛鳥田市政になってから金沢地先の海が埋めてられ、巨大な住宅地が出現し、風景は一変した。そして横浜市の干潟はすべて姿を消し、人工海岸に置き換わった。現在、横浜市にわずかに残る干潟は人工的につくられた「海の公園」だけである。

◆人とアサリ

 人とアサリの関係は深く、長い歴史を有している。貝類は移動する魚類などと違って採ることが容易だったから、縄文・弥生時代の貝塚からは大量の貝殻が出土する。出土する貝殻のなかで最もポピュラーなのがアサリだった。
 大森貝塚の発見者であるE.S.モースは、アサリ類は貝塚で最も多いものの一つと指摘している。つまり人とアサリの関係は太古の昔に遡ることができるわけだ。
 以来、日本列島の人々はアサリを利用し続けてきたが、つい最近まで資源が枯渇することはなかった。アサリはむしろきわめて重要な漁業資源だったのである。例えば、アサリの漁獲量が最も多かった1983年の漁獲組成を見ておこう。
 この年の沿岸漁業の生産量は213.7万トンだった。このうち貝類が38.0万トン、うちアサリが16.0万トンだったので、アサリは貝類の42.1%を、沿岸漁業の生産量の7.5%を占めていたのである。
ところでアサリは旨味成分が多く、和洋中の料理に合い、万能な食材ともいえる。
 和食では、深川の地名を冠した「深川飯」が有名だ。そしていい出汁がでるので、味噌汁や吸い物の具とし一般的に使われ、佃煮や江戸前鮨のネタでは煮貝としても食べられてきた。洋食ではクラムチャウダーやスパゲティ・ボンゴレがよく食べられている。加えて様々な中華料理の食材としても活用されてきた。
 また、ひと昔前の海洋性レクリエーションの代表は海水浴と潮干狩りであった。春の大潮の時期には大勢の人々が貝掘りを楽しんだ。一方、潮干狩りは漁場を管理する漁協の重要な収入源にもなっていた。

◆アサリの生態と漁業

 アサリは日本列島に広く分布する二枚貝類である。淡水が混ざる河口域の干潟や浅場に生息する。
 雌雄異体で、関東以西では春と秋の2回産卵期がある(東北地方は1~2回、北海道は1回)。殻長30㎜の成貝は50~100万個の卵を産むとされる。受精卵は2~3週間ほど浮遊生活を送った後、海底に着底し、足糸を出して砂礫に付着する。その後足糸を切り離し、砂に潜り、海水中のプランクトンやデトリタスを餌に成長する。シルト質の多いところは着底場所として不適で、足糸が付着するための砂が不可欠である。
 つまり稚貝の沈着は潮汐などの場の流動と底質の粒度に支配されることになり、後述するように条件のそろった特定の場所に「種場」が形成される。
 アサリの成長は生息場所の水温や餌の量に規定され、漁獲サイズの30㎜ほどになるまで、早いもので1年半、遅い場合は3年以上を要する。
 ところで干潮時の干上がった時を除き、アサリはプランクトンを含む海水中の懸濁粒子を常に濾過しており、自らの体をつくると同時に糞や擬糞として海水中から除去する機能を果たしている。つまりアサリは海水の浄化に大いに貢献しているのだ。
 次にアサリの漁法を見ておこう。アサリは主として潮間帯に生息しているから、干潮時に歩いて手掘りで採る小規模なものもあるが、漁業という産業面からは効率が悪い。効率的に採る方法は、①船を使わずに腰まき籠という道具を使って貝を砂ごとすくいとる方法(腰マキ)、②船上から大まき籠という道具を使って採る方法(大マキ)に分かれる。
 東京湾は主として上記の2つの方法でアサリを漁獲していたが、伊勢・三河湾などでは、海水を噴射させながら、貝桁網を曳網して漁獲するさらに効率的な漁法も導入されている。

◆激減したアサリの生産量

 わが国のアサリの生産量の推移を図1に示した。
 戦後の復興期を経て1960年代後半から1980年代前半まで、アサリの生産量は12万トンから16万トンの間を推移し、比較的安定していた。しかし80年代後半から急減、1990年代後半からは4万トン前後に落ち込んだ。
 このことに危機感を抱いた全国の水産研究者は2003年に「アサリ資源全国協議会」を組織し、2009年3月には「国産アサリの復活に向けて」の提言を行っているが、その後もアサリの生産量は減少し続けた。
 2014年には2万トンを割り込み、さらに2016年には1万トンを下回る。2020年にはとうとう0.5万トン以下になってしまった。アサリの生産量のピークは1983年の約16万トンであったから、現在はピーク時の約1/40に激減していることになる。
 2022年に入って愛知県で若干の回復が見られるが、危機的状況はいっこうに解消されておらず、一層深まっているといえよう。

                                       
    図1 わが国のアサリ生産量の推移
 「漁業・養殖業生産統計年報」(農林水産省)より作成

 ◆アサリの産地

 わが国のアサリ産地は閉鎖性内湾である東京湾、伊勢・三河湾、瀬戸内海、有明海が主産地で、浜名湖や北海道(厚岸湾や野付湾)がこれに次いだ。小規模な産地としては、宮城県の万石浦や松島湾、福島県の松川浦、高知県の浦の内湾、熊本県の八代海などが知られている。
 表1は戦後の主なアサリ産地の変遷を示したものである。1970年ごろまでは東京湾がアサリの主要な供給地であった。特に1960年は国内供給量の半分以上を占めていたのである。しかしその後衰退の一途をたどり、2020年にはわずか58トンに激減した。ちなみに東京湾のアサリ生産量のピークは1966年の7.9万トンであった。
 東京湾の漁獲量が減ると、その後アサリ産地は熊本県を中心とする有明海および瀬戸内海に移り、1990年以降は伊勢・三河湾がわが国のアサリの主な供給地に変った。
 しかし北海道を除くとどの産地も生産量が大幅に下落しており、近年のアサリ生産量の減少は全国的なものになっている。


 表1 主なアサリ産地の変遷(単位:トン)
 注)有明海のうち1960年と1970年の生産量には熊本県の他海域(八代海、天草海域)を含む
「漁業・養殖業生産統計年報」(農林水産省)および「熊本県、長崎県農林水産統計年報」(農林水産省)より作成                    

◆豊穣の海だった浦安

 東京ディズニーランドがある浦安は、かつてアサリをはじめとする二枚貝類やノリ養殖の漁場であった。
 町立浦安中学校が編纂した『昭和28年度版浦安年鑑』によると、当時の浦安町の総世帯数は3,248戸で、このうちの64.7%にあたる2,102戸が漁業に従事していた。
 ノリを養殖し、干潟でオゴノリを採り、アサリ、ハマグリをはじめとする貝類やカレイ類などの魚類、クルマエビ、ガザミなどの甲殻類を獲っていた。
 1951(昭和26)年のアサリの生産量は2,198,161貫(約8,243トン)であった。上述したように2020年の全国のアサリ生産量は4,305トンだから、浦安町だけで全国の生産量の2倍に相当するアサリを採っていたことになり、まさに驚異的といえる。ちなみにハマグリは1,418,274貫(約5,319トン)も採れており、東京湾湾奥のわずかな海域が信じられないほどの生産力を有していたのである。
 しかし浦安の漁民は1958年の本州製紙江戸川工場からの工場廃水によって大きな被害を受けることになった(この事件は後に水質汚濁防止法などの法整備のきっかけになった)。続く干潟の埋め立て計画によって1962年には漁業権を一部放棄、さらに1971年には全面放棄を余儀なくされ、浦安の漁業は消滅した。そして埋め立てられた土地に立地したのが東京ディズニーランドなのである。

◆アサリの輸入と産地偽装

 アサリの国内生産量が急速に減少したことから供給不足を補うためにアサリの輸入が1989年から始まった。
 財務省の貿易統計では、アサリの輸入品は、①活・生鮮・冷蔵品と②冷凍品の2種類に分けられている。①は基本的に殻付の活貝、②はむき身の冷凍である。2023年のアサリの輸入量と金額は、活貝が8,073トン、1,818百万円に対し、むき身は1,178トン、584百万円であった。
 活貝は日本に輸入後、水槽や浜などで蓄養されて流通する。一方、むき身冷凍品は佃煮などの加工原料や調理素材となる。
 活貝の輸入先は中国、韓国、北朝鮮である。その他の国はスポット的な輸入にとどまり、微々たるものだ。
 図2は国別の輸入量の推移を示したものだが、輸入量のピークは2000年前後の約7万トンであった。その後減少して3~4万トンで推移していたが、2022年2月に産地偽装が発覚してから輸入量は激減し、同年から1万トンを下回っている。中国産を熊本産と偽っていたことから、消費者のアサリに対するイメージが悪化、売れなくなったことが原因であろう。
 なお輸入先のうち北朝鮮は一時期大きなウエイトを占めていたが、2006年10月に日本政府により禁輸措置が講じられたことから、以後ゼロになった。ただ北朝鮮からの禁輸措置を境に中国からの輸入が急増しているので北朝鮮産アサリが中国を迂回して国内に流通している可能性は否定できない。
 一方、むき身冷凍品はそのほとんどが中国から輸入されている。私たちが食べるアサリの加工品はほぼすべて中国産アサリである。東京駅の駅弁・「東京名物・深川めし」も間違いなく中国産だ。

図2 アサリ活貝の輸入量の推移
「貿易統計(財務省)」より作成

◆アサリの需要と自給率

 日本からのアサリの輸出はほぼゼロだから、アサリの国内生産量と輸入量の総和が日本人のアサリ消費量とみていい。
 アサリの輸入品は殻付(活貝)とむき身の2種類なので、むき身の歩留まりを25%と仮定してラウンド換算の輸入量を推定し、国内生産との総和、つまり消費量を図3に示した。また消費量に対する国産の割合を自給率として算出した。
 アサリの国内消費量は1990年代までは10~12万トンで推移していたが、2002年には10万トンを下回り、以後道を転げ落ちるように減ってきた。つまり日本人はアサリを食べなくなったのだ。とりわけ産地偽装が発覚した2022年はわずか2万トンほどとなり最低となった。
 また自給率は1988年までは100%であったが、以降年々減少した。需要の減少とともに再び自給率はアップするものの、2020年は10.1%と最低を記録している。

図3 アサリの消費量と自給率の推移                
「貿易統計」(財務省),「漁業・養殖業生産統計年報」(農林水産省)より作成

◆人によって管理されていたアサリ資源

 アサリ稚貝の分布は場の流動と底質の粒度に支配されるから、稚貝の発生場所が限られることはすでに述べた。かつて東京湾におけるアサリ稚貝の種場は江戸川河口の浦安であった。この他にも盤洲鼻、神奈川県側の多摩川河口や鶴見川河口などに種場が形成された。種場には高密度で稚貝が沈着するから、間引いて適切な密度に調整しないとアサリは成長できない。つまり発生した資源は無効になる。これを有効に活用するためには人の手によって稚貝を分散することが必要なのだ。
 浦安では種場の沖に養殖場を確保し、発生した稚貝を移植するとともに、余剰の稚貝は浦安の貝問屋によって東京湾千葉側の干潟に広く供給された。図4に示す通り、遠くは富津岬まで運ばれていた。
 各地の地先干潟で育った成貝は再び貝類問屋によって浦安に集められた。活貝として流通するとともに、むき身業者(生むき身)やふかし屋(ボイルむき身)によって加工された。貝殻は貝灰工場に送られ、漆喰の原料や肥料などに活用された。
 活貝は行商によって都内や周辺の消費者に供給され、加工されたアサリは佃煮などの2次加工原料になった。驚くなかれこうしたシステムは江戸時代から明治、大正を経て1950年代頃まで続いていたのである。
 このように浦安は東京湾におけるアサリ稚貝の供給地であり、同時に加工、流通の拠点であったわけだが、浦安の貝加工の技術は、その後、東京湾先端の富津地区に引き継がれ、現在、富津市水産加工業協同組合がわが国の貝類加工の中心地となっている。
 同じようなことは愛知県の三河湾でも行われてきた。三河湾湾奥の豊川河口にある六条潟は浦安と同じようにアサリ稚貝の種場であった。愛知県漁連は六条潟の稚貝を採取し、三河湾および伊勢湾に広く分散、移植が続けられてきたのである。
図4 東京湾における稚貝と成貝の流れ
(「浦安市郷土博物館常設展示解説書」より引用)

◆漁獲量減少の原因と対策

 アサリは今まさに日本の沿岸から消えてなくなろうとしている。このままでは近々、絶滅危惧種になりかねない。有史以来の危機なのだ。この危機の根本原因は、日本の経済発展とともに人がアサリの生息する環境を破壊してきたことにある。
 沿岸環境の破壊の第1はアサリの生息場所である干潟・浅場の消失である。
 1960年代に年間5~8万トンのアサリを生産していた東京湾は、2020年にはわずか58トンに減少していることはすでに述べた。東京湾は高度経済成長下の1965~1984年にかけて大規模な埋立が進められた。これまでに東京湾の水面面積の約2割に相当する約25,000haが埋め立てられてしまったのである。しかもその大部分が干潟・浅場であった。現在、東京湾に残る干潟・浅場は千葉北部の通称三番瀬、木更津地区の磐津干潟、富津沖、東京都の三枚洲、羽田洲だけになっている。(図5)

 

図5 東京湾の埋立の推移(東京湾環境情報センターHPから改変)

 また瀬戸内海も同様で、地域によって豊凶変動はあったものの1990年代までは1万トン以上のアサリを生産していたが、2020年にはわずか75トンにすぎない。瀬戸内海の場合も1898年に25,190haあった干潟が、2006年には11,943haに減少、この間に13,247haの干潟・浅場が消失したのである。
 第2の環境破壊は河川と海を分断する河口堰、ダム、堰堤などの河川工作物が至るところにつくられたことだ。
 干潟は、前浜、河口、潟湖の3つのタイプに分類されるが、何れにしても砂泥を供給する河川が流入する場所である。ところが川砂を採取し、河川工作物を作ることによって砂の供給が絶たれれば、干潟の底質の粒度組成は大きく変化することになる。
 私の経験をお話ししよう。熊本県の白川の河口部はきわめて有力なアサリの産地であった。ところが高度成長期に白川の川砂を採取したばかりでなく、河川上流にダムを建設、途中に多くの堰堤を作ったことにより川からの砂の供給が遮断され、河口域の干潟の底質がシルト化した。このシルト化した干潟にホトトギスガイがマット状に表面を覆い、アサリが生息できない環境に変化してしまったのである。
 また広島県福山市では工業用水を確保するために芦田川河口に河口堰を建設した。アサリがたくさん獲れた河口域の環境は破壊され、その後全く獲れなくなってしまった。
 第3の環境破壊は海底を浚渫や海砂の採取などでかく乱したことによる貧酸素水塊の発生である。
 アサリの主要な産地であった東京湾、伊勢湾、瀬戸内海は多数の船舶が行き交うから浚渫によって航路や港を維持しなければならない。また埋立工事に伴って海底の砂泥を埋立用土として使用したことから、海底に多数の穴ぼこができている。加えて瀬戸内海を中心に長年にわたって海砂を採取したことにより、これまた多数の穴ぼこが至るところに残っている。
 このような穴ぼこの海水は海底の有機物が溶存酸素を消費して成層期に貧酸素になりやすい。表層水が吹送流によって沖に流され、その補流として穴ぼこの貧酸素水塊が湧昇し干潟・浅場に流れ着くと、移動できない貝類は大量に斃死することになる。東京湾では「青潮」と呼ばれた現象である。
 以上のような沿岸域の人的環境破壊に加えて、近年、アサリ資源減少の大きな原因となっているのが、西日本を中心とするナルトビエイなどのアサリを捕食する魚類の増加である。
 熊本県水産研究センターの調査によると、ナルトビエイは1尾が1日平均3.4㎏のアサリを捕食するといわれている。体重の平均33.7%を1日に捕食する大食漢である。
 瀬戸内海や有明海のアサリ減少の大きな原因はこのナルトビエイの増加による食害が大きい。もともと水温15℃が分布限界なので、冬季になれば湾外に出て行ったのが、近年の水温上昇に伴って長期にわたって瀬戸内海や有明海に棲み着くようになり、貝類を大量に食べているとされる。このため、漁業者たちは「水産多面的機能発揮対策支援事業」などを活用してナルトビエイの駆除(写真)や食害防止対策を講じているが、十分とはいえない。
 この他に下水の高度処理の普及による栄養塩類の負荷削減に伴う基礎生産力の低下(餌不足)、寄生生物や疫病の発生、ノリ養殖の支柱柵の減少などが指摘されているが、いずれも枝葉末節の類いだろう。

写真 駆除されたナルトビエイ

 アサリ資源復活のためには、人が破壊してきた沿岸域の環境再生、つまり干潟・浅場を再生し、河川を通じての砂の供給を復活させ、海底の穴ぼこを埋め戻すことである。もちろん長い時間がかかる壮大なプロジェクトになるが、すでに「自然再生推進法」(2003年)が制定されていることから、国民的理解は得やすいだろう。新たな公共事業として「国家百年の計」のもとで進めていかなければならない。
 干潟・浅場の再生は単にアサリ資源の回復にととまらず、様々な海洋生物や鳥類を含めた多様な沿岸生態系の再生を実現することになるだろう。
 そしてもう一つ重要な視点は江戸時代から1950年代まで東京湾で行われていた稚貝分散の経済システムを復活させること、つまり干潟・浅場などの地域連携を復活させることなのである。

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