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2017.05.02 14:48

水産伝習所はここにあった

有元貴文(22 増大、11 修)


1.水産伝習所はどこにあったのか?

 2003年に東京海洋大学になってから早いもので14年が過ぎようとしている。東京水産大学の時代が54年間,その前身の水産講習所も同じく54年間、そして母体となった水産伝習所は1988年創立で10年間と、これまでの歴史が続いてきており、1988年には創立百周年が実施されている。水産伝習所は大日本水産会(1882年設立)による私立の専門学校として始まったものであり,東京府からの認可は1887(明治 21)年であったが,翌年の開所式をもって創⽴記念日としたようである。

水産伝習所開所式の関沢明清所⻑の式辞では次のように述べられている。
 「夫れ水産の事を専⾨に教授するものは本邦未だ嘗(かつ)て有らざる所たるのみならず欧⽶米諸国に於いても其⽣生徒を率いて実施に臨み伝習せしむるが如きも 亦屢々(しばしば)難においておや是最も以って難事とす。然りと雖(いえど) も之難しとして為さずんば遂に為すべき期なからん……」

そのときは京橋区木挽町(水産伝習所仮設の地  https://ichihashi.me/wp/?p=11788)の仮校舎であったが,小松宮親王が来賓として臨席され,「大みくに とまさん 道をわたつみの 波の底まで ひらきつくせよ」と,和歌を寄せられている。伝習所は,その年の7月には日本橋区箱崎町へ移転し,さらに1989(明治23)年に芝区三⽥四国町に敷地を得て,第 1 期の学⽣を受け⼊れている。

これ以前の1887(明治20)年には芝公園山⾨前に4年制の大日本水産学校が作られているが,生徒の不足による経営困難のため、わずか5か月で廃校となっている。
また同じく1887年には駒場農学校と東京山林学校が合併してできた東京農林学校の農学部別科に3年制の⽔産科簡易科が作られたが,1989(明治22年)に卒業生20名をもって自然消滅したと百年史には記載されている。

水産伝習所創⽴をもって使命を果たしたという認識,そして教授陣⽤と設備の不足や多額の経費が問題となったようである。結果として,組織としての歴史をつなげることができたのは水産伝習所のみであり,水産界の要求に即応した速成の人材育成として1年制でスタートしたのが良かったのかもしれないし,大日本水産会と関係者が国を挙げての動きとして、補助⾦獲得に成功したのも大きかったようである。
 
 開校された当時の様⼦について、70年史には以下のように記されている。  

「水産伝習所が三⽥四国町にあった頃は教室が足りなくて二部授業をしたり、雨が降った時など次の組が傘をさして屋外で待っているという状態でありました・・・当時の生徒は国士的青年や,官吏,実業の経験者など玉石混交の状態であった。生徒のうちにはいろいろの経歴の者がいて,よく勉強する者もいたが三田四国町の近くを横行したり,寄宿舎の規則を乱す者などがあった」さらに百年史の文章を紹介する。
 「第1回入学者は全国各地から応募してきた最初のものであったことから,年齢も17歳から28歳までと開きが大きく、大半は20歳から25歳までの者に集中していた。また出⾝学校をみても大学予備⾨,師範学校,中学校など,なかには役⼈をしていたり、水産業を営む者の師弟もみられた」
この当時の学⽣たちの様⼦について,鈴⽊善幸の著になる「伊⾕以知二郎伝」では,以下のように紹介されている。
 
「当時は恰も明治の中頃で学⽣生徒の間には徹底した蛮カラが流行し,所謂弊衣短褐のいでたちにて天下の大道を所狭しと高吟放嘯して歩いた時代であって、稜たる蛮⾵は水産伝習所の寮舎をも風靡していた。南寮も北寮も錚々たる豪傑揃いで賄征伐とストームとは絶間がなかった。・・・北寮は日当たりも悪く、南寮に対して決して住み心地の良い処ではなかったが,これを望んで北寮に頑張っていた豪の者も居った。それは,北寮の窓下は直ぐに道路になっていて,点検後の脱出に地の利を占めていたからであった。」 

 さて,水産伝習所は三田四国町弐番地にあったと記録にあるが,明治・大正・昭和と時代の流れの中で旧町名は過去のものとなり,1964(昭和39)年に芝2~5丁目に変わっている。町名の由来としては,阿波・土佐・讃岐・伊予の四国大名の藩邸があった,あるいは因幡・阿波・薩摩・三河の四ヶ国の家臣の邸宅が あったためと諸説あるようだ。慶応大学三⽥校舎のとなりにある春日神社の参道⽯段の両側に並ぶ⽯には奉納者の住所氏名が彫り込まれており,三田四国町と記されたものが多い。しかし,現在の芝の街並みからはどこに水産伝習所があったのかを知る方法もない。  

 実際にはどこにあったのかを探そうとした試みがあった。「水産伝習所はどこ?」として楽⽔832号(2010)に三浦福助さんが寄稿され,真道重明先⽣生のホームページ~水産雑記にも掲載されている。  http://home.att.ne.jp/grape/shindo/DENSYUJYO_Fukusuke.pdf        
この文章の中では校舎場所の特定はできなかったのだが,三⽥四国町に勧農局育種場が広がっていたことから,この跡地に水産伝習所を建てたのではないかと推定し,明治40年の東京鳥瞰図のなかに2階建ての建物を見つけて,「これか?」という解釈をされている。



2.水産伝習所はここにあった! 

 福助さんの楽⽔記事が掲載された翌年,2011年3月26日,土曜⽇のことであった。卒業式を終えた翌⽇のことで,例年であれば日本水産学会春季大会が品川キャンパスで開催されて大忙しのはずであったが,東⽇本大震災を受けて⼤会が開催されなかった。徒然なるままに港区⽴港郷土資料館に出かけてみると「近代教育と港区」という展⽰が開かれており,明治時代の地図をもとに港区内に創⽴されたいくつかの学校の場所が示されていた。次々と眺めながら歩いていて,もう展⽰が終わりかけようかという場所で足が止まった。見つけました、水産傳習所の文字!えーっ,分かっていたんじゃないか!こんなにあっさりと見つかってしまって良いのかな~・・・という驚き半分,嬉しさそれ以上の瞬間であった。早速に「増補港区近代沿⾰図集〜芝・三⽥・芝浦」(港区教育委員会)を購⼊し,それを持って跡地まで歩いてみた。なるほど,この辺りか・・・という一⾓は東京女⼦学園の素敵な建物であった。 

 


図2 明治30年発行の「東京市芝区全図」に示された水産傳習所


 この地図では三⽥田四国町2丁⽬は広い面積を占めており,他の区画が細かく町名番地で示されているのとは様子が異なっている。そこで同じ資料のページをめくり,時代をさかのぼっていくと,明治20年発⾏の「東京実測図」では⼤きく7区画に分けられた真っ⽩な敷地,さらに明治9年「明治東京全図」では全体が勧業寮御用地となっていて,大名屋敷のあった場所を明治政府が有効に使っていたものが,徐々に住宅地に変わっていったように見受けられる。1885年(明治18年)には駒場農学校獣医学科が三⽥四国町に移っていることから,広⼤な敷地をまとめて使うことが考えられ,その⼀角に水産伝習所も敷地を得たのであろう。

図3 水産伝習所の跡地に示された東京女学校


 同じ図集で現代に向かっていくと,大正10年の「東京市芝区図」では確かに同じ敷地に高等女学校とあり,昭和9年の「東京市芝区地籍図」には東京女学校となる。それ以後は,東京女⼦中・高校,東京女⼦学園と続き今に至っている。

 次に,女⼦学園のホームページを確認してみた。http://www.tokyo‑joshi.ac.jp/gakuen/history.htmlこの沿⾰のページを見ると,1903(明治36年)の項に「棚橋絢⼦を校⻑に迎え、高等女学校令による4年制の府下最初の私⽴高等女学校として私⽴東京高等女学校を開校。生徒83名、教員11名」と記載され,創⽴時校舎と第1回卒業式の写真が掲載されている。この校舎正⾨の写真を見て,確かに水産伝習所の2階建ての校舎と同じものであり,さらに卒業⽣と教職員が並んで撮影した正⾨前の写真も、百年史にある第2回卒業⽣の写真と同じ方向から撮っており、同じ屋根が写っている。 
 
 
  

図4 三田四国町の水産伝習所

図5 明治23年の卒業写真

                                                                                             

 

図6 百年史に掲載の伝習所跡地

 
 ここまで至って「もしかすると・・・」 の気持ちは,「水産伝習所はここにあった!」と確信できた。そこで改めて百年史を読み直してみた。1989(平成元)年の発行であり,私の恩師である井上 実先生が編集に当たられていた。このなかの水産伝習所についてのページを読んでいて驚かされた。校舎の配置図とともに,伝習所の位置を示す地図が示されていた。この時点で、30年も前に井上先⽣は水産伝習所の位置を確認されておいでだった・・・!残念ながら跡地確認までの説明の文章もなく,井上先⽣から大発⾒の喜びのお話も聞いていないので,ただ淡々と跡地を確認して百年史に掲載されたのであろう。  
  
   修業年限1ヶ年で始まった水産伝習所は三⽥の地に根をはり,明治27年には3年教育となって官公⽴尋常中学校と同等以上であるとの認定を受け,そして明治30年に閉所,敷地・校舎とも水産講習所に引き継がれていく。その当時について70年史には次のように紹介されている。  

「水産伝習所校舎に若⼲の修理を加えて使⽤することにし,水産伝習所の生徒を2年⽣および3年⽣として受入れ,職員も大部分伝習所から引継いで発⾜した。外観的には伝習所時代と余り変らなかったが,官⽴になったということで, 将来への明るい希望は大きかった。」

また学⽣たちの様⼦が「水講初期の思い出〜なつかしい三⽥気質」に紹介され ている。   

「水講には伝習所の残留組が編⼊されていたので私たちは水講三回⽣となった。・・・清正公の隣に下宿屋を探して卒業するまでいた。学校まで一里半の道をかすりの粗服に小倉のはかま,すりばち型のお釜帽⼦といういでたちで,大きな黄楊の棒をふりふり所狭しとばかり,三⽥四国町まで毎⽇高下駄か,素⾜で通ったから私が通ると道をゆく人が振り返って見たものだ。 ・・・慶応⽣約50名に単独決闘を申し込んで,今の高輪高校のあるところ・・・で,味⽅3⼈だけで戦闘陣を展開,アワヤという瞬間に敵を走らせた奇計などは今もって面⽩い思い出である。」  

 三⽥界隈を騒がせていた水産伝習所・講習所の暴れん坊たちは越中島に引っ越し,そして女⼦校になってしまった。近所の住⺠はさぞかし安⼼したことであろう。
 

3. そして・・・  

 水産伝習所はどこにあったのかを探る道は三浦福助さんの文章から始まり, 百年史の地図掲載を確認したことで終わってしまった。そのときに竹内正⼀先生,そして真道先⽣と三浦福助さんに以下のメールをお送りして返信をいただいている。   
以前から三⽥四国町の位置を気にかけておりましたが,土曜⽇に港区資料館を見物に行きまして,展⽰されておりました昔の地図をしげしげと眺めているうちに,「アッ,これは!」・・・というわけで,あっさりと場所の確認ができてしまいました。
 
   早速に付近を歩いて参りました。現在は東京女⼦学園の敷地になっており,今朝になって女子学園のホームページで沿⾰を見ておりましたが,創立当時の建物が,福助さんの紹介されている伝習所の校舎とそっくりです。三浦さんの絵地図の「?」のあたりになります。          

  明治30年に伝習所廃校とともに同じ敷地で水産講習所となり,35年に越中島の新校舎が完成しています。高等女学校が明治35年創⽴ですので,建物ごと敷地を譲り受けての開学になった模様。伝習所で動物学を教えていた内村鑑三が女⼦教育に力を入れていた時期ですので,どこかで接点があったのかもしれません。      以上第一報ですが,竹内先生の勉強会か,楽⽔で紹介してみようと思案中です。  

>伝習所は写真で見る限り「そっくり」ですねー。 福助さんは、子供の頃は三⽥にいたそうです。   

>有元さんの文、頂きました。あの女学校は白線の入ったスカートが制服で、憧れの的でした。水講の跡地とは知りませんでした。


 
 
 
 

    図7 東京女子学園の位置を示す現在の地図 
 
 大震災から半年が過ぎた頃に、楽水会館において月例で開かれていた「水産について考える会」で発表をさせて頂いた。このときの資料「水産伝習所跡地探訪」は真道先⽣生のホームページに掲載されている。 http://home.att.ne.jp/grape/shindo/suisan8.htm#DENSYUJO_̲new      
(元 東京海洋大学教授)  

 

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