メールマガジン

トップ > メールマガジン > 我が師匠 軽部征夫先生を偲んで
2021.04.30 15:40

我が師匠 軽部征夫先生を偲んで

遠藤 英明(33食工)

 2020年2月10日(月)、帰宅途中の電車でメールのチェックをしていると、師匠である軽部征夫先生の訃報が目に飛び込んできました。あまりにも突然のことに、とても信じられず体が硬直してしまったことを憶えています。78歳でした。早すぎます。私にとっての先生は、いつも元気で笑顔に満ちあふれる方であったため、とても受け入れることはできませんでした。気がつくと車内のつり革につかまりながら涙で溢れた目を腕で覆っていました。先生は私にとって、学の師匠であり、人生の恩師であり、永遠の目標であり、それはもう言葉では言い表せない存在でした。軽部先生は、1966年に本学の製造学科をご卒業後、東京工業大学大学院理工学系研究科に進学され、1972年に同大学院を修了して工学博士を取得されました。その後、米国イリノイ大学博士研究員(1972年)、東京工業大学資源化学研究所助手(1974年)、助教授(1980年)、教授(1985年)を経て、1988年に東京大学先端科学技術研究センター教授、2003年に東京工科大学教授(バイオニクス学部長)、2005年に同学副学長、さらに2008年には東京工科大学学長に就任されました。この間、日本におけるバイオエレクトロニクス研究の第一人者として、特にバイオセンサの開発研究分野では世界中の研究者を常にリードしてきました。

 バイオセンサとは、生物の持つ優れた生体触媒機能とエレクトロニクス技術とを組み合わせることにより、有機化合物やホルモン類など、種々の物質を迅速・簡便に測定できる斬新な計測システムです。軽部先生は、この研究分野において長きにわたって革新的技術を生み出し、常に先駆者的な存在でした。例えば、水環境の有機物汚濁の指標としてとなるBOD(生物化学的酸素要求量)を測定するために、固定化微生物と酸素電極より構成される微生物バイオセンサを世界に先駆けて考案し、従来の分析法では5日間を要していた測定を僅か数十分に短縮することに成功しました。その後、微生物だけでなく、酵素や細胞が持つあらゆる生体触媒機能を応用して、アルコールセンサ、酢酸センサ、グルタミン酸センサ、旨味センサなどを次々に開発し、それら物質の迅速・簡便な測定を可能にすると共に、そのいくつかは分析機器機として実際に商品化されて現在に至っています。この間、日本化学会学術賞(1987年)、新技術開発財団市村学術貢献賞(1990年)、ルント大学(スウェーデン)名誉工学博士号(1994年)、東京都発明研究功労賞(1994年)、バイオセンサ国際会議バイオセンサ国際賞(2002年)、文部科学省文部科学大臣賞(2003年)、英国王立生物学会名誉フェロー(2010年)、特許庁長官表彰(2015年)、従四位瑞宝中綬章(2020年)等を授与・受賞され、そのご活躍は日本国内はもちろん、世界中で高く評価されていました。

 そんな先生と最初にお目にかかったのは、上述のバイオセンサの研究開発の真最中にあった1985年頃のことです。当時、私はまだ東京水産大学食工学科の卒論生で、当時の指導教員であった渡辺悦生先生のもとで魚肉の鮮度を測定するバイオセンサの研究に取り組んでいました。この間、バイオセンサ関連の論文を読む度に、Isao Karubeという名が次々に目に留まり、一体この研究者はどういう方なのだろうと思っていました。そして渡辺先生に尋ねてみたところ、「軽部さんは本学の卒業生で君の大先輩だよ」と教えていただきました。これ以降、私が卒論を進める上で参考としたバイオセンサ関連の原著論文の多くに、Dr.Karubeの名が載っており、その名は私にとって次第に憧れの存在になってきました。

 その後、渡辺先生の紹介で軽部先生が所属するある東京工業大学資源化学研究所を訪問する機会に恵まれました。この時、軽部先生は私に向かって開口一番に「遠藤君、工学とはどんな学問だと思う?」と尋ねられたのです。私が「それは物理や数学の学問を駆使して新しいものを作り出す学問でしょうか?」と答えると、先生は「概ね君の言うとおりだけど、実は我々の研究室は生物の力を使って世の中に役立つモノづくりをしているんだ。生物学と工学の融合だよ。これからの工学研究は大きく変わるよ。」と大きな目を輝かせながら話してくれました。この時の先生の目とその言葉は、未だに忘れることができません。私にとって「生物学を駆使したモノづくり」は、まさに「目から鱗が落ちる」ほどの衝撃でした。この頃、バイオテクノロジーの研究は、まだ開花したばかりの時期であり、バイオセンサをはじめ、今では当たり前のように耳に入ってくる遺伝子組換え、PCR、環境修復などの用語が、当時はまだ斬新な単語として少しずつ使われていた頃です。そしてこの時期の日本は、豊かなバブル景気に支えられていたこともあり、民間企業に所属する多くの優れた研究者が、社運を賭けて軽部先生のもとに派遣され、最新のバイオテクノロジーを学びに来ていたのです。そんなわけで、先生の研究室は向学心に燃えた学生と精鋭の社会人研究者で溢れ、研究に対する熱気がムンムンと伝わってきました。そしてその雰囲気が、私の向学心を強く駆り立て、その勢いで軽部研究室の門を叩くべく東京工業大学大学院に進学しました。

 大学院生として軽部研究室に在籍してからは、先生には学から遊に至るまで、本当に多くのことを学ばせていただきました。とにかくエネルギッシュな方で、いつも話しているか、手を動かしているか、何かを読んでいるかの連続で、じっとしている先生を私はこれまでに見たことがありません。先生はいつも「世界中で誰もやっていないことを目指せ!」、「実験データを机の中に数年間しまっておいても陳腐化しないオリジナリティ溢れる研究をやれ!」と我々に発破をかけ、海外出張される時はニコニコしながら「これで飛行機の中で時差を使って仕事ができる」と仰っていました。また、研究室内を模様替えするような時は、自らペンキ缶と刷毛を持って、率先して我々に塗り方を指導してくれました。研究室の仲間達とは「いったい先生はいつ眠るのだろう?」とか、「先生はアメリカ大統領の次くらいに忙しい人間ではないか?」といつも噂していたものです。とにかく先生の行動力とタフさに敵う者は誰もいませんでした。先生がこのような調子なので、軽部研のメンバーは全員それに引きずられる状態で、当時CMで流行った「24時間働けますか!?」という文句を仲間と掛け合いながら、研究、実験、そして先生からの雑用処理に明け暮れ、それはもう忙しくも、充実した楽しい毎日でした。現在の私も、学内外で教育、研究、管理運営、社会貢献とそれなりに忙しい毎日を送っておりますが、この時期の経験が大きな糧となっているからこそ、無事に過ごすことができているのだと思います。それから数年後、先生の下での修行を無事終え、工学博士の学位を授与されました。そして私が東京水産大学の助手に任官された時は、とても喜ばれて盛大にお祝いをしていただき、豪快でタフなばかりでなく、とても人情に厚い先生でした。

 軽部先生の教え子は、記録されているだけでも450名にのぼり、私のように大学に奉職した方が80名以上、そのなかでFullprofessorが57名もいます。また、先生の研究成果は原著論文として総計599件を記録し、バイオセンサの研究に携わる世界中の研究者に多くの刺激を与えてくれました。そんな先生に、いつかはきっと何かの形で恩返をさせていただきたいと思っていた矢先に、突然のご逝去によりそれは叶いませんでした。ただ、ご生前に喜んでいただいたエピソードが一つあります。それは数年前に本学がタイムズハイヤーエデュケーション(THE)の小規模大学の世界ランキングにおいてベスト20位にランキングされ、これをお伝えした時のことです。当時、これに合わせて大学で作成した広報グッズを、お歳暮と一緒に同梱して贈らせていただきました。その後すぐにお礼状をいただき、そこには「先日は海笞と東京海洋大学のグッズをお送りいただき、ありがとうございます。~中略~英国THEの5、000人未満の大学で、東京海洋大学が20位に入ったのは誠に快挙ですね。東大がアジアのトップの座から滑り落ちたのに、トップ20に日本の大学が3校も入るのは大変なことですね。東京医科歯科大学も横浜市立大学も医学部がある大学ですので研究も盛んだと思いますが、海洋大が海洋科学の分野でCenter of Excellenceを逹成したのは意義があることだと思います。」というお言葉をいただきました。先生がご自分の母校に対して非常に喜んでいただけたことが、私自身とても嬉しく励みになりました。先生がご逝去されてから、私はこの手紙を額装して自分の机の横に掛け、何かある度にこれを眺めたり、話しかけたして、日々の活力としております。これからも先生の教えを大切にしながら日々精進し、それを自分の教え子達に継承していくつもりです。軽部先生、長年にわたり本当にありがとうございました。(東京海洋大学 海洋環境科学部門教授)

TOP