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2021.12.17 12:06

幻の発掘映像「海鷹丸南極記」の顛末

林 敏史(36漁工36専)

 フィルムを探し出す経緯や当時の思い出は、春日功元船長から大学へのお手紙で始まり、松山元学長が各界にも連絡を取っていただき、当時の様子が樂水誌に掲載されています。当時の新聞の記事から、昭和31年地球観測年において戦後日本としてはじめて国際舞台にのぞみ、国民が息をのんでその成功を祈った宗谷の南極観測において、随伴した船がいたことは、当時の日本人はみんな知っていて、子供たちも地球儀を持って今どこにいるのか新聞とともに海鷹丸を追っかけていたような内容を読み取ることができます。
 第1回南極調査航海の編集された記録フィルムは、16mmでカラーでしたが、当時はまだ8mmで白黒が大半であったことを考えると、たいへん貴重なことが想像できます。朝日新聞社からの記録として撮影がなされたものと考えられますが、以前、南極60周年の当時の海鷹丸の講演のため、現在の朝日新聞(朝日放送の記録部にも)に聞きに伺いましたが、フィルムに関しての存在記録さえありませんでした。

 先進国ではなかった日本が南極へ挑戦することは、朝日新聞社の全面的な支援によるものが大きかったことが南極関連の記録から伺えます。

南極統合本部長 清瀬一郎文部大臣による激励

 船首甲板をこの時の為だけに一時的にヘリコプター甲板に代船建造後2年目の海鷹丸Ⅱ世を改造することは、発想も大胆としか言いようがありません。極地航海への参加は、複数の候補船舶の中から選ばれたことが資料から分かりますが、随伴船が決まったその夕方には全国紙のトップで海鷹丸の乗組員発表がなされ、前から決まっていたようにも想像できます。当時専攻科学生だった故・勝呂さん(4漁大)からは、出身地の駅において小旗を持った住民で万歳をもって見送られたと伺ったことがあります。また文部大臣が出港式で学生達の肩をたたき、「これからの水産の将来は君たちの双肩にかかっている」と言われたとも話を聞いたことがありました。
 海鷹丸Ⅲ世の宝谷船長の頃までは、小池次席一等航海士が船内の教室で映写機をまわして南極航海のフィルムを再生し、長い航海中の学生達に映画のように新鮮な想いを記憶にとどめさせていました。実は元フィルムで私はこの南極航海記を見たことがあります。
 新船となってから海鷹丸で所在が分からなくなり、映像が古いこともありVHSでの上映もしなくなり、その内、その存在も薄れ、実際の南極航海が定例化して、過去の映像を見たい乗組員や学生もいなくなっていました。

 今回初めて知りましたが、平成8年ごろ、海鷹丸Ⅲ世で南極航海を行った春日船長は、海鷹丸Ⅳ世になる前に貴重なフィルムを図書館に管理を委託していました。映像資料は、第1回と第2回南極航海、ガラパゴス航海、青鷹丸調査航海などNHKが主として練習船を取材した記録映像等です。第1回の南極航海を作成したのは、当時「日本映画新社」でその後「東宝ステラ」が業務を引き継ぎましたが、海鷹丸の映像記録の著作権の有無が確認できなかったため、東宝ステラから海洋大が著作者で良いということになっています。ちなみに第2回目海鷹丸南極航海はNHKの作成で、語り手はあの宮田輝アナウンサーです。
 当時の図書館の係長からの証言によると平成8年ごろまで図書館にあり、平成10年ころVHSに記録され、その後紛失したようだとのことです。今年9月に図書館職員とミュージアム職員と船のスタッフで艇庫2階の練習船図書庫などを捜索しました。整理中の動物の毛皮を使用した初期の防寒着は、展示する方向になりましたが、第1回南極航海の映像資料は見つからず、学生のプライベートな遠洋航海中の映像記録がでてきました。8mmフィルムはカラーでしたが、アルミ缶を開ける前から酢酸の匂いがきつく、テープで密閉されたアルミ缶の中のテープは、固着や変色があり、映写機にかけることはほぼ不可能な状態でした。想像ではありますが、おそらくVHSに変換することがやっとで、フィルムとしては修復ができなかったかもしれません。今年6月NHKアーカイブスの番組発掘プロジェクトと相談し、記録映像の修復をお願いする事も考えられましたが、修復された第2回の鮮明な映像をみると第1回のフィルムが見つからなかったことは大変残念でなりません。

 第1回の南極航海のVHF映像資料からDVDに変換した映像資料を基に、若干の修正を行い、当時、二等航海士の柳川三郎先生(東京水産大学名誉教授)から乗船中の貴重な話を聞こうとNHKと相談し学内で上映会を行うことになりました。
 2021年9月21日松山元学長と柳川先生とコロナ対応として最小限の人数で上映会を行い、図書館やマリンサイエンスミュージアムも紹介され、現在の海鷹丸で現役の専攻科学生に声をかけるなど、長時間撮影が行われました。
 そして、10月18日月曜日午前11時30分からのNHK「ひるまえほっと」(関東甲信越版)で放送されました。コロナ禍であるけれども、恩師の柳川先生のお元気な姿や当時のお話が聞くことができて、大変うれしく感じています。学生のころ聞いていた第1回の南極航海とは異なり、柳川先生の映像を見て思い出した当時の体験談は大変新鮮で、航海士の仕事に収まらず、きめ細かく南極の全てを観察記録する姿勢に改めて感動しました。当時は、南極観測は調査というより冒険に近く、先進国の仲間入りには国力がまだ追いついていない日本にとっては、かなり厳しい挑戦だったことがわかりました。一大学の練習船が国家事業に従事することは、あまり無いことかもしれませんが、その決定までの経緯には、50年目以降に出てくる所管等にも出てこない様々な要因やタイミングがあったと思います。
 一方、当時専攻科学生の一部は学生のまま民間の漁船に乗り、手当をいただきながら、中には南氷洋での捕鯨にも出ていたかもしれないことを考えると、危険を伴った極地への乗船漁業実習も、水産漁業での世界から航行できる可能性を見出していたのではないかとも想像しています。むしろ海鷹丸や大学の行動が大きな資産になっていることも計算していたのかもしれません。
 今から南極調査航海を行うことができる機関はほとんどないかもしれません。北極航路開拓で変わる極地航法での有資格者の配置や高騰する燃料費用や過酷な極地による船体損傷補修などへの大きな予算措置、専門性の高いスキルが必要なスタッフの養成など、容易ではありません。氷海域での沈没や事故での責任を考えると、冒険でなくなった現在での南極洋調査でも多くの負担を抱えています。伝統的に携わることになった海鷹丸の極地航海技術は忘れないよう維持することは重要ですが、毎年、南極航海に特化した練習船というだけではなく、新たな可能性を秘めた実習航海を計画できればと思います。

(海鷹丸船長・教授)

現在、海鷹丸は第65次遠洋航海中です。

1956年 海鷹丸Ⅱ世 南極航海出港

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