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2016.06.01 12:49

母校関係者の偉業-食生活編-PART2

斉田育秀(21製大)

 前回に続き、身近な「食」に関する母校関係者の偉大な功績の話の続編である。

5.「食品添加物」の危険性を最初に警告した啓蒙家にして偉大な研究者“天野慶之”

 今でこそ食品添加物に関する消費者の関心は高いが、第2次大戦後からしばらくは人工甘味料・着色料・香料・防腐剤が当たり前の時代であった。これらを使った加工食品が豊かさの象徴で、「食の安全」など大半の人が問題にしなかった時代である。昭和28年、当時農林省水産試験所にいた天野慶之(36水講)は、「五色の毒-主婦の食品手帳-」を上梓。これが日本に於ける最初の「食品添加物の危険」を警告する本となり、「有害食品」に消費者が関心を向けるきっかけを作った。その3年後には「おそるべき食物」を出版、世の中の関心はさらに高まることになる(この間にヒ素ミルク事件が発生)。天野はマサチューセッツ工科大学の客員研究員、東海区水産研究所の所長を務め、水産食品の鮮度判定などに多大の功績を残した。また「食品衛生化学」という新分野を創始、東水大の教授・学長を務めた。

6.牡蠣養殖の基本的手法「垂下式養殖法」を創始した“妹尾秀美”“堀重蔵”

 現在日本各地で実施されている牡蠣の養殖技術、「垂下式牡蠣養殖法」を考案したのは水産講習所の教授妹尾秀美と堀重蔵(20水講)である。妹尾は大正元年から大正3年まで欧米に出張し牡蠣の養殖事業を視察。フランス・アルカッション式養牡蠣法を横浜の金沢実習場で実施した。大正12年9月に関東大震災が発生し、海底の地盤が隆起したため従来の地蒔法では限界があると判断。大正12年9月より、以前から検討していた海の立体的利用法を推し進め、画期的な「垂下式養殖法」が確立された。この技術の普及に貢献したのが、アメリカに牡蠣を輸出するために水産講習所に技術指導を仰いだ、アメリカ帰りの宮城新昌である。宮城は石巻で垂下式養殖法を実践し今日の東北地方の牡蠣養殖の基礎を作った。まさに産学協同の成功事例である。尚、宮城新昌は「美味しゅうございます」でお馴染みの料理記者・岸朝子の実父である。また妹尾秀美のことは「食卓のフォークロア」(春山行夫著)に、島崎藤村がボルドーの牡蠣の養殖法を調べにきた妹尾君という人を探したという話が、「仏蘭西だより」に出ているとの記述がある(確認したところ島崎藤村著「エトランゼエ」に収録)。加えて「食物百話」(天野慶之著)には、若き日の菊池寛と思しき記者が水産講習所の妹尾教授を訪ねる、「R」という牡蠣をテーマにした小説の話が載っている。

7.「カニ缶詰」の難問「青肉問題」を解決する製造法を発明した“小坂部勇”

 大正3年にカムチャッカ西海岸沖合で、水産講習所の練習船「雲鷹丸」が船上でのカニ缶詰(タラバガニ)製造に初めて成功し、これがカニ工船事業につながった。カニ缶詰と母校との関わりは深く、「肉の黒変」「ストラバイト」などの諸問題も水産講習所・東水大で長年にわたり研究されてきた。東水大教授・小坂部勇(35水講)は、カニ肉のトラブルのひとつ「青肉」の発生を防ぐ具体的な製法を考案した人物である。青肉の原因はカニの血液中のヘモシアニンにあると推定されていた。そこで筋肉蛋白質と血液蛋白質の熱凝固点の差を利用し、一度軽くボイル(55〜65℃)した後、熱凝固した筋肉蛋白質から液状の血液を流し、さらにボイルする「二段煮熟法」を発明したのである。この発明は日米で特許を取得、小坂部はこれによって紫綬褒章と優秀発明賞を受賞している。

 

以上、「食」に関する母校関係者の偉業を2回にわたり簡単に述べてきたが、「果実」を得た先輩諸氏がここに辿り着くまでには更に多くの先人の基礎研究や努力があったことは想像に難くない。その詳細は専門の研究に譲るとして、この他に母校の関係者で「食」に関する偉業と言えば、国産マヨネーズを最初に製造・発売した「キユーピー」の創業者中島董一郎(10水講)。更に「製缶と缶詰製造の分離」の観点から、わが国で最初の空缶専門メーカー「東洋製罐」を創業した高碕達之助(9水講)などがいる。ただ二人のように比較的その業績が知られている人物についてはまたの機会に譲ろうと思う。(映画史・食文化研究家)

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