徒然なるままに
雲津雅行(22漁大22専)
まったく無精者の私ではあるが、高校時代に学んだ古典の一節『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。』は、今でも心に残っている。40年程前母校を卒業以来、水産に関わる仕事をしております。時空を川の流れに例えるならば、将にこの一節が私の心象にピッタリの様な気がします。歴史的な事実は、時空の中で輝きを放ちながらも、その経過と供に静かに消えて行く様を、私は見てきました。その様な業界の歴史的出来事について、私なりの感想を交えて述べてみたいと思います。
1970年代日本の水産業は、世界的な資源問題と200海里経済水域の台頭により、従来の遠洋漁業の存立が難しくなった時期でした。捕鯨事業は大手水産会社単独の船団出漁から1社へ集約されやがて存続すら危ぶまれる状況へと進んで行きました。私が入社して直ぐ乗船した北洋母船式サケマス流し網事業も70年代半ばをピークに減船に次ぐ減船を繰り返し、現在はロシア海域に於ける流し網漁業そのものの存続も難しくなっております。私が乗船していた頃の北洋サケマス船団は10船団近くあり、各船団30隻以上の独航船を編成して、北洋海域に出漁しておりました。従って5月上旬から7月下旬の期間、全船団合わせて1万人以上の人々が洋上で事業に従事していたと思います。出港前の函館は、準備の為様々な会社の人々が集まり漁船員見送りの家族も加えれば相当数の人々が函館に集結していたと思います。
母船や独航船の食料積込、魚網や機械の準備調整で出漁前の一週間、港は活気に溢れていました。北洋サケマス漁業は、当時母船式と基地独航船式の2つの漁業形式に分かれていました。母船式は、先に述べたように母船の指令室から付属独航船の操業をコントロールし、その日漁獲したサケマスを運び母船内で加工処理し、一杯になれば仲積運搬船が日本まで運ぶシステムになっておりました。基地独航船漁業は各独航船が漁獲したサケマスを船上で処理し満船になると基地となっていた根室・釧路に帰港、又出漁するというシステムでした。あの頃北海道に於けるサケマス漁業は、経済的に大きな影響を持つ産業だったと思います。しかしながらこの事業も70年代をピークに衰退へと向かい、母船式サケマス漁業は消滅しました。日ソ漁業交渉の政治的結末や米国マグナソン法による外国漁船規制と各国の自国経済水域に於ける権益確保等々、各国の色々な思惑が北洋サケマス漁業を歴史の彼方へ押流しました。しかし私には、歴史の必然として、輝きを放った北洋サケマス船団事業が、時空の流れの中に、ただゆっくりとフェイドアウトしていった様な気がします。
入社5年程を経過して私は営業に異動となりました。80年代に入り日本国内の鮭鱒供給の主役は、輸入サケマスに替わり、特にアラスカブリストル湾で漁獲される紅鮭に替わっておりました。私は、母船式サケマス事業時代、調査独航船に乗船しヴェーリング海西経海域で操業した経験がありました。その時の調査操業で信じられない程の紅鮭を漁獲した事がありました。その時獲った紅鮭は、ブリストル湾系群で東カムチャッカ系群とは若干異なる魚でした。この魚群がブリストル湾に遡上するとすれば、かなりの資源量である事は間違いないと感じたものでした。80年代から90年代中頃まで、アラスカ湾でのサケマス及びカニ・ニシンなど日本の商社や水産会社による買付は、昔のゴールドラッシュを思わせる程に、資材及び生産会社の基地となったシアトル・バンクーバーに活気を与えました。サケマス缶詰生産はアラスカで19世紀後半から行われていたものの、本格的漁業資源の開発活用に乗り出したのは、この頃からと思います。特に陸上工場の他に洋上加工船での生産は、日本漁業のノウハウを引き継いだ事業形態でした。
アラスカの漁業は、当初日本向け水産物の生産から始まりました。しかし、次第に魚食の魅力が米国及び世界に伝わり、日本マーケットに頼らない供給体制となりました。結果、日本の役割も終わりに近づいた様に思われます。それと相前後してサケマス生産は養殖の時代に入りました。アラスカ事業の最前線シアトル駐在から日本に戻ってきたのは、養殖サケマス生産が拡大期に入った90年代後半でした。この頃、漁業は大きな転換期を迎えていたと思います。サケマス・マグロに代表される回遊魚系の養殖は漁業生産のあり方を大きく変えました。自然をコントロールする、或いは自然と共存する形での漁業生産が可能になったと言えましょうか。サケマスを中心に私的な体験を述べてきました。水産業はこれからもグローバルに変化を繰り返しながら、続いてゆくことでしょう。その様な現場に身を置く自分は幸せだと思います。(株式会社 極洋、役員)