松生義勝先生の胸像建立について
森永 勤(16漁大)
昨春、松生義勝先生の胸像建立の計画を知り、この拙文を書くことにする。先生の名前を聴いてすぐに思い出す読者は少なく、その代り、先生のご子息、洽・睦兄弟の名前を覚えている卒業生は未だに多く、これも時の流れと思う。義勝先生の晩年の経歴は第一水産講習所(東京)所長を務めた後、東京水産大学初代学長職を1949年から1958年まで9年間、それから水産講習所(下関)の所長に就任、4年余務める。また、長男、洽先生は東京水産大学教授から水産大学校の校長へ転出、当時「親子二代の校長」のニュースになる。さらに、二男、睦元社長・会長は母校へ寄附講座{サラダ・サイエンス}を設置したケンコーマヨネーズ株式会社の創業者である。
ときは1962年の秋、国際インド洋調査(IIOE)の出発に先立ち、海鷹丸と水産大学校の耕洋丸による合同出港式が東京・竹芝桟橋で行われた。当時、専攻科生だった中村善彦東京水産大学名誉教授は義勝先生親子の心温まる光景を目撃したと述懐している。「「出港式に向かう義勝先生は糖尿病で足腰が弱いためタラップによる乗船が困難の様子、海鷹丸航海士の洽先生が背負って会場に案内した。」」翌年の1963年1月、義勝先生は水産講習所長の現職で逝去、享年72歳である。
前置きはさておき、松生義勝先生が最後に勤務した水産大学校の歴史をひも解いてみる。太平洋戦争直前の1941年、朝鮮総督府の要請で、現在の韓国・釜山に水産食糧の生産や人材養成のため、釜山高等水産学校が設立される。当時の校長、教頭はそれぞれ水産講習所出身の田中耕之助(14漁)、松生義勝(16製)の両教授である。その後、同校は釜山水産専門学校と改称する。敗戦直後、総督府が基盤であった釜山水産専門学校は事実上解散・廃校になり、在籍する1・2年生の370名は将来、自分たちがどのようになるか不安であったと容易に想像できる。しかし、両先生等のご尽力で水産講習所(越中島)へ編入学の措置が講じられ、身分が保障される。
時を同じくして、下関市の水産業界や有力者は東シナ海の豊富な水産資源を確保するため、地元に水産学校の必要性を訴え、幾多の困難を乗り越えて実現する。水産講習所下関分所、第二水産講習所および水産講習所など校名の度度の変更後、最終的には1963年、水産大学校(農林省)の名称で存続する。この間の経緯を辿ると、田中耕之助、松生義勝の両先生が如何に大学の再建に貢献したか、それを疑う大学関係者は誰もいないと言われている。また、大戦前、わが国の官立の海外高等教育機関は44校あり、そのうち唯一水産大学校のみが存続したことは衆知の事実である。このことからも、両先生が学校再建に並々ならぬ心血を注いだことがよく判る。なお、釜山水産専門学校は米軍政下で再組織された釜山水産大学となり、後に総合大学に昇格、更に統合して釜慶大学校(この内、水産科学大学、環境・海洋科学大学)で存続する。
2016年4月、水産大学校の卒業生7,700名で組織する同窓会、滄溟(そうめい)会は、その前身である碧水会から数えて創立69周年を迎える。また、同時期に、この水産大学校は水産総合研究センターと統合して、「国立研究開発法人、水産研究・教育機構」水産大学校になる。これを機に、同校卒業生有志は松生義勝元所長の顕彰実行委員会を発足、胸像製作事業として募金活動を開始する。(1962年、滄溟会は田中耕之助初代所長を顕彰して胸像を寄贈)
滄溟会は両先生のご功績を記録に残し、母校に献納する文案を作成している。その中の1節を以下に紹介する。「外地にあった釜山水産専門学校が太平洋戦争敗戦後による激動の波に翻弄され、2度の廃校の危機に見舞われながらも今なお水産大学校として健全に存在するのは、初代校長田中耕之助先生と教頭松生義勝先生の学生および学校にたいする情熱的かつ大胆で臨機応変な英断と、筆舌に尽くし難い万難を体当たりで乗り越えられたご尽力による。」
顕彰実行委員会は完成した松生義勝先生の立派な胸像を滄溟会に寄贈、胸像は滄溟会の資産として下関市・吉見の水産大学校の校庭に置かれ、2017年1月吉日、除幕式が行われた。(楽水会 監事)
(写真提供:毛利雅彦 水産大学校教授)