小さな大学の幸せ
古寺 建二(28漁生)
1. 海なし県から水産大学へ
私は昭和32年に海なし県・栃木の県庁所在地である宇都宮に生まれました。入学当時は「海なし県から水産大学に何故来たの?」「海に憧れたの?」と良く聞かれましたが、受験のきっかけは、兄の同級生でもあり、私の中学時代のテニス部の2歳先輩でもあった水大生のKさんでした。
Kさんは当時大学2年でダイビング部の寮生で、いろいろ楽しい?めちゃくちゃな?学生生活の話は、5年制の国立の工業高等専門学校=高専に通っていた私にとって大変魅力的に映りました。
高専の先生方の多くは東京の大学の先生で、また二十歳の学生もいることから、私服、専用喫煙所、代返、雀荘通い、飲酒等々、高専は大変自由な雰囲気で気に入っていたのですが、水大話の魅力に勝てず、3年中退を決意し、その届を学生課に出したときのこと。学生課の職員はあっさりと届を受理し一言、
「君、大学落ちたら中卒だよ。」
と言われたことは今でも覚えています。小太りで背の小さい冷たい感じのその職員の顔もはっきり思い出せます。(私は意外と執念深いのかも知れません。)
当時の入試制度は国立一期校・二期校時代の最後の頃で、間もなく始まる全国共通一次試験制度への移行期にあたり、入試科目から古典や社会科の科目が除外されたため、入試の倍率は20倍前後の学科が多数あり、夕方のNHKのニュースで高倍率学科として報道されたほどでしたので、ロクな受験勉強もしていない自分は浪人覚悟でしたが無事合格。国立大学合格者は、地元紙・下野新聞の一面に氏名と大学名が掲載されるという長閑な時代でした。因みにその年に東京水産大学に合格したのは私一人でした。
2.朋鷹寮510号室
Kさんの話を聞いていたので、迷うことなく入寮。寮委員会による入寮審査に無事合格(落ちた人いたのでしょうか?)。部屋は南寮5階の510号室で、4年生はラグビー部の三浦さん(宮城)、3年生は野球部の小原さん(千葉)、2年生は柔道部の賀沢さん(福島)と駒居さん(兵庫)の個性豊かな5人部屋となりました。当時の先輩方は、飯でも酒でも全て奢ってくれる古き良き時代でした。二日酔いの時の寮の一番風呂は最高でした。 寮の各部屋では節目節目に部屋会が開催されるのですが、我が部屋は木枠に入った日本酒6本セットが定番でしたから、1年生の私は北品川商店街に買いに行き、リヤカーを借りて運んできました。部屋会は毎回大荒れで、他の部屋会なら暇人が飲みに来てくれるのですが、危険な部屋会には近寄る人はいませんでした。5人で6升ですから、未成年には本当にキツイ飲み会でした。昔の西部劇では棺桶を馬車で墓地に運ぶシーンがよくありますが、大量の酒で今晩死ぬ自分の棺桶をリヤカーで運んでいる姿を今でも連想します。でも美味しいものも沢山食べることができました。結局、飲みすぎて吐いてしまうのですが、三浦さんの実家・石巻の杭打ち式の養殖かき(粒は小さいのですが味は濃厚)、駒居さんの実家・兵庫の香住のズワイガニ(四角い氷の中に浮かび上がる沢山の蟹、まさにオブジェの様でした。宅急便のない時代でしたからこれもまた品川駅までリヤカーで受取に行きました。)カレイ・ハタハタの干物など。当時は漁師の実家の寮生も多く、食べ物には大変恵まれていました。
翌年の4月には後輩の藤本くん(ボート部・兵庫)、1年遅れて浜谷くん(野球部・北海道)が同じ部屋の住人となりましたが、家族ぐるみでお付き合いさせていただいた隣の509号室の山口くん(剣道部・千葉)が亡くなると、わが部屋の小原さん、藤本くん、浜谷くんまで続々と亡くなったのは残念無念です。仕事を引退したら、のんびり旅でもしながら旧交を温めようと思っていましたが、老後の大きな楽しみを失いました。南寮5階(特に510号室)の皆さんは短命と言われないように、是非とも元気に長生きして下さい。
ところでKさんのことです。私と外界との繋がりは楽水橋を通じてでしたが、たまたま大学正門を通りかかると何とKさんはテントを張ってソテツの所で一人ハンガーストライキ。寮委員長をしていたので 賄いさんの労働条件改善要求でした。Kさんはその他の学生運動にも関わり、結果、大学を退学処分?となり実家に一時戻りましたが、親からは勘当。私が夏休みで実家に帰るとKさんは我が家に居候しており、これまたびっくり!その後、勘当は解け、家業の米穀商を継ぎましたが、ガスの配管、水回りの仕事へも手を広げ、お陰で我が家の水洗便所も綺麗になりました。しかし、水漏れ多く、あき竹城似の実姉の厳しい指導を受けていました(笑)
3. 現在の仕事
510号室は経営経済系のコースに進む人が多く、私も特に進路に悩むことなく、経営系に進みました。実験も無いし、余り学校に行かなくても卒業できるとの悪魔の情報もありました。
自ら就職活動はしませんでしたが、当時、経営系の講座には「相磯のおばちゃん」という名物事務員がおり、学生の希望を聞いて、卒業生に電話して就職斡旋をしていました。私は民間も大変そうだな、公務員も嫌だなと話していると、某水産団体を紹介してくれましたので、先輩に会いにゆき、入社試験を受けましたが、最終的にはその団体の隣にある「全国漁業共済組合連合会」にお世話になることになり、現在に至ります。後から聞くと、平沢豊先生のご尽力も多々あったと聞きました。
漁業災害補償法という法律に基づく「漁業共済事業」(獲る漁業や藻類養殖業等については収入減少、魚類養殖業等については逃亡・死亡等による損害を補償)と国の補助事業である「漁業収入安定対策事業」(漁業者1:国3の積立方式による漁業共済の上積み補償(=積立ぷらす)と掛金追加補助)を実施しています。加入率は約90%に達しており、任意加入の仕組みとしては極めて高く、類似制度である農業共済や農業収入保険の遥かに上をいきます。最近は主要魚種の不漁やコロナ禍による水産物需要減退等による価格下落等により漁業者の収入減少が激しく、共済金・払戻補填金の支払いが急増していますが、これらの制度のお陰で何とか経営を維持できているとの声を聞くと、この仕事を選んで良かったと思うこの頃です。生産者相手の仕事ですから、随分と全国の漁村や市場に行く機会に恵まれました。出張の前には水大OBを楽水会名簿で調べましたが、どの主要生産地でもお会いすることができ、貴重な情報は勿論、時にはお酒もご馳走になりました。 東京水産大学は小さな大学で、水産業も決して産業的には大きくありませんが、これがベストフィトで、濃密な全国ネットワークがあり、人間的にも魅力のある人材が豊かであると感じています。長女の進学の際も、東京海洋大学・朋鷹寮を勧めたのですが、残念ながらリケジョにはなりませんでした。
皆さん、タイムスリップしてもう一度大学を受験できたら?と考えたことはありませんか。私は間違いなく、迷わずまた東京水産大学を選択すると思います。でも今度はもう少し真面目に勉強して卒業しようと思います。
(全国漁業共済組合連合会・専務理事、楽水会理事)