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2017.07.04 10:30

続・おさかなその世界―魚群探見飛行に関わった女性飛行士―

幡谷 雅之(15増大)

 大正末期~昭和初期、海上から飛行機で鰹や鮪の群を探索し、漁船を誘導して効率的な漁獲に繫げようという試みが各地で行われた。大正12年(1923)日本航空輸送研究所が三重県水産講習所と提携して実施した事例が最も古く、愛媛県や高知県でも試されているが、実用化には結びつかなかった。継続事業としては静岡県が本邦初であり、昭和2年(1927)のことである。

 それは、ライト兄弟の初飛行(1903)から24年後、日本で航空輸送事業が開始されてからわずか5年後のことである。今ならさしずめ、県が独自に人工衛星を打ち上げるにも匹敵する大事業だったに違いない。

 静岡県においては、私設の三保飛行場(現静岡市清水区)を開設した根岸錦蔵(1892~1983)の熱心な働きかけにより、昭和3、4年度に、八丈島三根海軍飛行場を基地にして実用試験が行われた。試験飛行を開始するにあたり大きな障害となったのは、世間一般の「飛行機の安全性に対する不当な危惧」であり、関係者の周囲には「懐疑と不安と確信とが渦巻いていた」。

 使用機は、陸軍払下げの複葉索引式陸上練習機白龍号で、30分も飛べば「ガタガタガタと凄い胴震いを始めるので、一旦降りてバルブをすり合わせては又飛上るといふ情ない状態」であった。

 3年度から三根飛行場を根拠地とし、機上より本島を認められる範囲内を調査する実用試験に入ったが、機関故障や機体破損のため不時着するなど、事故が相次ぎ、搭乗員は文字通り命賭けであった。 

 5年度から主に中島式三座水上機義勇8、9号で、5年度にはハンザ式単葉水上機1機も使用した。義勇号は海軍の15式水上偵察機で、海防義会より無償貸与された。調査は三保真崎を根拠地として、駿河湾及び伊豆七島近海にて実施した。主に鰹釣り漁船、鰹・鮪揚繰網漁船を対象とした。

義勇8号と9号

 機には操縦士、無線通信士、漁夫(または水産試験場職員)各1名が搭乗し、高度80~300mで飛行、魚種と遊泳状態或いは流木付魚群を捜査し、機上の羅針儀によりその位置を測定した。漁船等への連絡方法は、①付近漁船へ報告筒投下、②機上からの無電通信、③水試無電局の放送及び有線電話、④NHK静岡放送局ローカルニュース、などによった。機上から投下する報告筒には返信用葉書が封入され、漁業者は必要事項を記入の上返送した。昭和5~13年度に(報告された)漁獲尾数・金額は合計757千尾、492千円であるが、今の物価に換算すると1億7千万円程度になるだろう。「報告なし」を含めるとこの数倍に達するものと思われる。

 戦後は魚群探知機の普及により漁船の魚群探知能力は飛躍的に向上し、魚群探見飛行はその使命を終えたが、昭和49、50年度、わずか2年間であるが同様の調査が行われたことがあるが、実際の操業に役立ったかどうか定かではない。

 最後に、魚群探見飛行に関わった一人の女性飛行士の話を紹介する。

 雲井(くもい)龍子(たつこ)(1899~1984)、NHK連続テレビ小説「雲のじゅうたん」のモデルの一人でもあった彼女は、17歳の頃、来日したアメリカの一級女性飛行士キャサリン・スティンソンが行った宙返り飛行を見て、「毛唐の女にできるなら私にだって」と飛行士になることを決意する。

 驚くことに、大正11年~昭和15年の20年間に、日本でも30名近い女性たちが飛行機操縦士免許や、滑空免許を取得していた。当時の航空機乗員規則には、女性を排除する記載はなかった。

 思いつめた20歳の龍子は、大正9年4月、前年にできた磐田郡掛塚村(現磐田市竜洋町)天竜川河原の福長飛行機研究所に、雑用一切を引き受ける助手として入所した。同所には複葉機が一機あるきりで、龍子に搭乗機会はほとんどなかった。同年7月、後に龍子のパートナーとなる18歳の根岸錦蔵が入所してくる。龍子が2歳年下の錦蔵に対して、師であり同士である以上の、異性としての感情を抱いたようだ。

 ところが、関東大震災によって東京の実家が被害を受け、資金援助が打ち切られた錦蔵は、以前から約束のあった静岡県の家山(現島田市川根町)に来た。そこで三重県が魚群探見飛行を行うという情報を得、三保飛行場を拠点とした魚群探知の仕事を思い立つ。こうして錦蔵と龍子は大正12年の暮れ以降再び静岡に移ることとなるが、当時二人の活躍の場は、宣伝ビラ散布、曲技飛行、野球大会の始球式などで、航空通信業務というよりも、宣伝活動が主であった。

それから5年目、昭和3年9月、ついに魚群探見飛行が開始されることなり、同年7月、二人は漁期を前にして八丈島に飛んだ。龍子には二度目の八丈行きである。しかし第1回目の探見飛行を無事終えて八丈島から帰った直後龍子は突然飛行機を降り、以後龍子が搭乗することは二度となかった。その理由は錦蔵の女性問題にあった。八丈島での飛行を終えて三保に帰った家には、錦蔵と関係のある女性が待っていたのだ。ショックのあまり彼女は家を出た。

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