「信濃丸の知られざる生涯」を読んで
有元貴文(22増大)
昨年10月,第114回「水産について考える会」において宇佐美省三氏による講演を拝聴する機会があった。「蟹工船の実像に迫る〜雲鷹丸も担った日本のシーパワー」についての話題であり,その折に近著予定としてお話しされていた信濃丸の物語がついに刊行の運びとなった。喜ばしい限りである。
人の一生には物語があるように,一隻の船が造られてから廃船となるまでの生涯にも必ず物語がある。船の生涯を掘り起こしてきた語り部による3冊目の書籍が上梓された。『笠戸丸から見た日本』,『蟹工船興亡史』の著者である宇佐美昇三氏が,バルチック艦隊との日本海海戦で活躍した信濃丸を主役に新たな物語を掘り起こし,まとめられた。
既刊2著は笠戸丸の生涯を追った物語であったが,信濃丸はその笠戸丸の傍にさりげなく姿を現したと著者は言う。どちらも漁船としての経歴があり,伸び盛りの水産業界にあって遠洋漁場での缶詰製造に活躍し,そして日本の経済躍進に貢献してきた。その歴史を紐解く作業が認められ,日本缶詰びん詰レトルト食品協会の月刊誌「缶詰時報」に14回にわたって信濃丸の物語が綴られてきた。この連載中に著者より原稿記事をお送りいただき,また連載が終わった段階では資料集としての冊子も印刷され,まとまった形で読ませていただいてきた。
信濃丸は外航貨客船として1900年にイギリスで生まれ,日本郵船商船隊の一翼を担うかたちで北米や中国大陸と日本を結ぶ客船として就航するが,1904年の日露開戦によって徴用され,仮装巡洋艦として日本海海戦に参加する。「皇国ノ興廃コノ一戦ニ在リ」に始まる東郷元帥の訓示はあまりにも有名であり,「敵艦見ユトノ警報ニ接シ連合艦隊直チニ出動,コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ波高シ」の秋山真之参謀の電文は「坂の上の雲」を通じて今も広く知られている。さて,信濃丸がバルチック艦隊を発見,通報したことが日本海海戦での大勝利につながったとされ,そして大国ロシアに勝利したことで極東の小国であった日本が世界での存在感を高めていくことになった。しかし,戦記に残された「敵艦見ユ」の状況についてバルチック艦隊陣形図やブリッジでの乗員勤務状況をもとに史実を紐解いていく頁の運びには著者の面目躍如たるものがある。著者の海事史研究の基本姿勢として,「蟹工船興亡史」執筆の折に「現地を見る,人に会う,文献に当たる」ことと聞いてきたが,さらに文献について「掘り起こすこと,読み込むこと,そして掘り下げること」と新たな教えを受けたように感じている。昨今の公文書改ざん・隠匿のスキャンダルにも匹敵するような大きな問題でありながら,当事者の意識がさほど深刻ではなかった当時の様子が興味深く紹介されている。
さて,外国航路の大型豪華客船として生まれながら,戦時中の徴用,戦後の引き揚げ船,移民船,さらに漁船としての北洋での活躍といった信濃丸の流転の生涯は,著者の第一著作の主役である笠戸丸とも重なる歴史である。日露戦争に勝利し,戦利品として得たものが笠戸丸であり,賠償が北洋の漁業権であったことも本書のなかで紹介されている。笠戸丸が蟹工船であったのに対して,信濃丸は北洋鮭鱒流し網漁業に当初は補給船として,そして改装により沖取り工船として活躍した。笠戸丸も,そして信濃丸も,日本が東洋の大国への道を進み,戦争という大きな時代の流れに繰り返しさらされながら明治から昭和を生き抜く中で,北洋で漁船として活躍し,日本の経済躍進を支えた経歴は明るい一面であったに違いない。
なお,本書の前身となる資料集の誌名は「鮭鱒工船だった信濃丸の数奇な一生」と記され,副題として「〜いま日本の海洋力を問う〜」と付されていた。本書の序章でも「シーパワー(海洋力)とは」との注釈がある。そして第7章では「シーマンシップ」を取り上げ,シーパワーを支えるものは海員であり,船乗り養成が日本の国力を下支えしてきたこと,そして信濃丸の乗組員の活躍を記すなかで,「海はシーマンシップを育てる揺籠」との1行の重みに感動させられた。信濃丸という一隻の船の生涯を語るなかから,島国である日本が大事に育ててきたものがこれからも根付き,育ってくれるのかを読者に問いかけているに違いない。この章の出だしには旧海軍からの伝統標語とされる一文が記されている。
「スマートで目先が利いて几帳面,負けじ魂 これぞ船乗り」
私が初めてこの文を目にしたのは大学に入った1年生の時であった。宗谷の随伴船としての海鷹丸の活躍をまとめた「南極観測航海記」(昭和32年出版,有紀書房)を大学図書館で見つけて胸躍らせながら読みふけった。このなかで熊凝船長の紹介された標語が今の時代にも生き続けてくれていることを信じたい。
船の生涯についての海事史の語り部としての宇佐美氏の情熱,あるいは歴史を掘り起こすなかでの船への愛情を感じる一巻である。信濃丸の生涯の最終章は当時の新聞記事の見出しで感動的に締められている。「老船は消え去るのみ〜屑鉄となる信濃丸,数奇な運命に終止符」。そして信濃丸の号鐘は東京の教会で礼拝の時を告げる鐘として生き続けているという。日本の激動の時代の流れのなかを生き抜いた信濃丸の生涯を記録し,日本の海事力,海運力のあり方,そして北洋の母船式漁業の歴史を語る本書を同窓の皆さまに紹介させて頂きます。(東京海洋大学名誉教授)
明治から昭和を生き抜いた船
信濃丸の知られざる生涯
宇佐美 昇三 著
海文堂出版
定価 本体 1,500円+税
(2018年、182ページ)
ISBNコード 978-4-303-63441-4