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2024.02.01 16:57

東京都庁食品Gメン半生記 前編「サンキュー先生が食品Gメンになるまで」

山口剛広(32食工)

 私は、食工32回の山口剛広と申します。学科が食品工学であったこともあり、入学当初は食品業界に就職するものと、漠然と考えておりました。しかし、在学中に読んだアルフレッド・ウェーゲナー(ドイツ)の『大陸と海洋の起源』に感銘を受け、人生航路を修正することとなりました。

 ウェーゲナーは、世界の各地域を「地中海性気候」や「熱帯モンスーン気候」などに区分したウラジミール・ケッペンを岳父に持つ、やはり気象学者でした。しかし、ウェーゲナーの名を世界に知らしめたのは、南米大陸東岸とアフリカ大陸西岸の海岸線がピタリと重ね合わさることに発想を得た「大陸移動説」の提唱者としてでした。しかも、単に海岸線の一致だけではなく、南米のギアナ高地とアフリカのサハラ砂漠南方の地質の連続性や、南米・アフリカ・インドの各南端部に類似したミミズが分布することなど、状況証拠を綿密に積み上げたのです。そして、1915年に著した『大陸と海洋の起源』で、「南半球に分散する各大陸は、かつては一つにつながってゴンドワナ大陸を形成していた」と発表しました。

 しかし、彼の学説は、学会や世間には受け入れられませんでした。とある物理学者から「大陸を動かす原動力は何か?」と尋ねられたウェーゲナーは、確証がないまま「太陽や月の引力=潮汐力や、地球の自転によって生じた遠心力だろう」と答えました。質問した物理学者は、すぐさまこれらの力では大陸を動かせないことを計算し、「ウェーゲナーの説はデタラメだ」と否定したことで、「大陸移動説」は闇に葬られてしまったのです。1920年、ウェーゲナーは失意のまま、調査で訪れたグリーンランドでその生涯を閉じたのでした。

 そして、大陸移動説の封印から50年ほど後のこと、大西洋の中央を南北に走る“大西洋中央海嶺”の東と西とで、海底に残る地磁気の分布が、まるで鏡に映したように対照的であることが判明しました。この発見をきっかけに、地下深くから上昇したマグマが新しい海嶺を造り、新たに生まれた岩盤が海底を両方向に広げていることがわかりました。これこそが、大陸を動かす原動力だったのです。かくして、ウェーゲナーの説の正しさは証明され、これを基にした「プレートテクトニクス理論」は、いまや世間の常識となったことはご存知のとおりです。

 ですが、私はこの50年間のブランクが残念でなりません。もし、プレートテクトニクスの研究が足踏みすることなく継続していれば、地震の研究も50年分進んでいた筈です。阪神・淡路や東日本の大震災、そして今年の能登半島地震なども事前に予知できて被害を軽減できたのではないかと、忸怩たる思いでおります…。

 さて、大陸移動説に心を揺さぶられた私は地学の道を歩もうと、土曜日の午後に海洋環境工学科向けに開講されていた「地質学」や「海洋地質学」、「陸水学」などを受講しました。さらに、教員資格を取得すために「理科教育法」なども履修した上で、母校の都立高校で教育実習も行いました。担当する科目はもちろん「地学」です。指導教諭はのちに日本学生科学大賞の審査委員長をお勤めになる浅野敏雄教諭でした。浅野先生の指導方針は、先ず、生徒に自然現象に関心を抱かせ、その現象の原理を自主的に考えさせて結論に導く手法でした。その方針は私に対しても同様で、当時の教科書には詳しく取り上げられていなかった大陸移動説を、授業で扱うことを認めてくださいました。

 こうして教育実習は無事に終了し、教員免許も取得できたのですが、その後は苦難の連続でした。東京都の高校教員採用試験を受験したのですが、元々地学での採用は毎年1、2名の狭き門(化学や物理、生物は相応の採用人数だったようですが…)で不合格。そこで、水大に研究生として残ろうかと思案の矢先に、教育実習を行った母校から「生物の教諭が産休で1年ほど休むことになったので、その間、代わりに生物を教えてほしい。」との打診を頂いたのです。“渡りに船”とばかりに私は二つ返事で引き受けました。産休代替教員、いわゆる「サンキュー先生」として教壇に立ちながら、採用試験に挑戦することになったのですが…。

 しかし、その後も連戦連敗で、年齢も20代後半となりました。その頃の私は、学生時代に一緒にサークルを立ち上げた同志であり、このメルマガ編集担当の根本雅生教授が修士として在籍されていた漁業情報学講座に度々出没しておりました。ある日のこと、その研究室に顔を出すと、根本君の指導教官であった竹内正一先生が私を捕まえ、「いつまでもフラフラしていないで、正職に就いたらどうだ。水大生なら食品衛生監視員の資格を持っているのだから、公務員試験を受けてみろ」と勧めてくださいました。食品衛生監視員になる資格は、医師や歯科医師、薬剤師、獣医師の他、大学で畜産学や水産学、農芸化学の過程を修了した者などと規定されています。「そろそろ経済的にも自立しなければ…」と焦り始めていた私は、地学教師の夢を諦め、東京都の食品衛生監視員の採用試験を受けることにしました。が、しかし…。

 当時、産休教師として勤めていた中学校では運動部の顧問を任され、唯一の休日であった日曜日(当時は土曜日も午前中授業がありました)も、練習やら試合の引率やらで試験準備に充てる時間はほとんどなく、ぶっつけ本番での受験となりました。出題された問題の中には「界面活性剤を分類して、それぞれを説明せよ」など一字も書けなかった難問もありましたが、食中毒菌や自然毒など、元々心得があった分野からの出題もあり、どうにか合格することができました(因みに、水大生時代、大学図書館で何十回も借りていた本が、J.A.モイートマス著「古生代の魚類」と橋本芳郎著「魚介類の毒」でした)。なお、受験申込みは64名で、採用は私を含めて5名でしたので倍率は約13倍、合格できたのは幸運でした。かくして平成元年4月、東京都庁の食品衛生監視員(略して食監、世間では食品Gメンとも称されています)としての35年に及ぶ人生がスタートしたのでした。具体的な仕事の内容については、次回後編でお伝えしましょう。

 なお、現在、東京都では「食品衛生監視」という職種はなく、かつての「環境衛生監視」と統合されて「衛生監視」となっており、採用試験も「その他の試験区分」の中の「衛生監視」として募集しています(「水産」と同様です)。試験要項は例年3月上旬にホームページで公表され、試験は4月下旬に実施されますが、受験申込はインターネットのみで、期間も3月下旬から4月上旬までと短いので、受験をご希望の方はご注意ください。

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